細田守監督『サマーウォーズ』

 ストーリーの新奇性に価値のある映画ではないと思われたので、隠しません。逃げたきゃ逃げたまい。
 言っておくがな、俺は『デジモンアドベンチャー02』の世界中の選ばれた子供たちを巡る展開が結構好きだったりするくらいには世界の広さが情念で乗り越えられるシチュエーションが大好きなんだぜ。
 全編まあ楽しかったんだけど、本気で泣きそうになったのはそこだけでした。
 それも無論『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』の焼き直しではあるけれど。
 んーと、これ多分『ウォーゲーム!』のリメイクってことで話が動いていたのを「なめるなよ、石川。12万人しか動員していない作品の続編が、どうして売れるんだ」みたいな、「なめるなよ、齋藤。ジャリ番のリメイクが、どうして売れるんだ」というような話になって、完全オリジナルの新作なる触れ込みになったんでないかなあ。そうとでも考えないとありえないくらいなにもかもが『ウォーゲーム!』過ぎる。
 改変した部分は無論色々あるのだけれど、どれもが改悪だとしか思えなかった。
 まあ全部そうと言ってしまえばそうなんだけど、一番これはない、と思ったのはナツキの変身シーン。
 『ウォーゲーム!』での対応物は、勿論あの感動的なオメガモンの初登場シーン。
 ネットを通じて世界中から集まった善意が戦士の姿を変えていく、似たようなシーンには勿論見える。
 だが、そこに至るまでの経緯、姿を変えられる戦士のありようには大きな差がある。
 ナツキはただのアバターであり、夏希に操作されているだけの存在だ。
 ウォーグレイモンとメタルガルルモンはデジモンであり、自らの意志を持って戦っている。
 デジモンたちの戦いを、選ばれた子供たちは基本的に見守ることしかできない。というのは結局夏希の掛金に自分のアバターを提供した親戚たちや世界中の人々と同じなわけだけれど、太一とヤマトはウォーグレイモンとメタルガルルモンが傷つく姿に、その場に行って彼らとともに戦えないことによる激しい無力感に苛まれている。
 彼らの無力感、そして苛立ちが最高潮に達した時、奇跡が起こり、彼らはネット世界へと招かれ、最強の戦士オメガモンが誕生するのだ。
 子分に戦わせて自らは体を張らない『ポケモン』以降の時代、即ちポケモニックエイジの常識に敢然と叛旗を翻した、あまりに勇敢な反時代精神に我々は喝采を送った。
 ポケモニックを突破する方向性はその後のシリーズにも引きつがれて『テイマーズ』のクライマックスになり『フロンティア』はただの変身ヒーローものになってデジモンアイデンティティを失ってしまったわけだが、その極めて理想的な形がその最初期の作品である『ウォーゲーム!』にはあった、と言えるだろう。
 「守られてるばかりはいやや、ウチも守りたい」と言い換えてもいいが、そういう倫理性を、しかし『サマーウォーズ』は完全に欠いている。
 アバターに意志はなく、傷つくこともない。従って、彼らの傷ついているその戦場に行きたい、とモニタのこちら側から思うものもいない。
 太一とヤマトを蝕んだ、傍観者でしかあれないことへの痛切な絶望はそこにはない。
 無論、傍観者からの励ましのメールが処理を遅くするだけ、というあの皮肉さも、それを武器に転化する展開の妙もない。
 アバターという設定の導入が奪ったものがもう一つある。デジモンとパートナーとの絆である。
 デジモンとは、あちら側では一緒だがこちら側では一緒ではない誰か、言ってみればネットパルのメタファーだ。たまにはオフ会をすることもあるだろうが、基本的には生活圏を共有しない。そういう距離感の相手との絆は、『サマーウォーズ』作中では見事に描かれない。あちらでもこちらでも一緒のご親戚と親友、そしてあちらですら縁遠いドイツの男の子。それしか登場しない。中間距離、ネット生活を一番豊かにしてくれるはずのネットの友人たちがまったく存在しない。カズマには吉祥寺ジョニーとか松戸マイクとかそんなようなあだ名の格ゲー仲間がいてもいいと思うんだけど、描かれない。あたかも、ネットの友達なんて本当の友達ではない、と言わんばかりに。
 ネット描写は、そういう意味では随分後退している、というべきだろう。
 ここにもデジモン不在が響いていて、ディアボロモンが不思議な生き物デジモンであることによって可能になっていた曖昧さが失われている。そのためたかだかジ・インターネット上で動くAIによっていくらなんでもスタンドアローンで制御してんじゃねえの、というブツまで操られる展開は、単にアンリアルにしか見えない。『ニューロマンサー』においてすら結線せずに別室に置いておく、というセキュリティが描かれているわけだから、サイバーネタとしては20年以上の後退だ。デジモンというファンタジーを排斥したことで、却ってネット描写がファンタジーになってしまっている、と言うべきか。
 比べてしまえば見劣りがする、1年の積み重ねがあった上での40分の短編と単発の120分ではそりゃ必要な説明の手間が全く違うから仕方ないには決まってるんだけど、『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』は思いのほかデジモンの映画だったのだな、と改めて気付かされる。
 えーとあと細田守アニメの微妙なPC的無神経さとか気になりません? 女は家事、男は戦争ってなっちゃってるのとか。
 声優的にはところで功介と真琴が夫婦。時をかける少女仲里依紗がワンテンポ遅れる女にキャストされている、というのは少し面白い。『時かけ』って真琴が自分の気持ちに追いつくまでの映画ではあったのであって、なるほどそういう配役か、とも思うのだけれど、大変おばちゃんおばちゃんしていてびっくりした。
 あと玉川紗己子山像かおりの独身コンビが喋ると落ち着くなあと思ったんだけど、そういうのは否定しなくていいのか、と疑問に思った。信澤三惠子の溢れるヒロイン感にももちょっと対策があってしかるべきではなかったか。
 全体に、オーバーフローする声優力を御しきれてなかった感じ。
 カズマが谷村美月のあの声で男の子ってな『シムーン』世界でしか通らんて!
 かわいかった。