http://d.hatena.ne.jp/rocketdolphin/20060709/p1
 上の記事とそのリンク先の動画を見て思った事。
 潮目は変わっている。
 例えば最近ハイクオリティな神作画と称されたところの『ハルヒ』十二話のライブシーンが、湯浅政明作画だったら、恐らくひどく叩かれていたのではないか、というような事は容易に想像されます。ハルヒ長門の手足がいきなり細くなり、変なガニマタで立って手先がなんかやたらに俊敏に動いて……みたいな。
 癖の強いスーパーアニメーターが自分の癖と美意識をむき出しにしてばりばりと描く、その癖と美意識をファンも理解し、あるいは理解まではしないもののその美意識に裏打ちされた動きのよさをなんとなく感得して気持ちよくなり、作品の評価につながり、ビッグビジネスになる、というような図式は恐らく崩壊している。
 今はとにかく総作画監督をこき使って絵柄を統一し、それから枚数をやたらめったらにかける事がビッグビジネスを呼び込むようになっていて、原画マンレベルのアニメートのセンスは商品力の源ではなくなっている。そう言う意味で人月単位で表現できる以上の作画資源はつぎこまなかった『涼宮ハルヒの憂鬱』はよく時流が読めている、うつのみや理に無造作にOPを任せてしまう『エウレカセブン』は読めていない、うつのみや作画をネタにしてしまう『アクエリオン』は時流を読んだ上でそれに中指を突き立てるパンクロックではあるが、まあ理が勝ちすぎてるかなあ、という具合。
 アニメートのセンスだけが商品力になる世界、というのもそれはそれであって、スタジオ4℃なんてのはまさにその蛸壺でやっていってるわけで、スーパーアニメーターはスーパーなのにこういう世界でしか生きていけないのか、と思うとちとううん、となる。ジャパニメジャンルではまだまだ需要があるだろうけどね。
 いや、というか、スーパーなアニメート抜きでハイクオリティアニメが成立する、と言う事の方がやや、なんかこう、寂しい。
 なお、動画枚数はビジネスになる、てのは嬉しくなくはない事実であります。表現のレベルできちんとしていく努力は報われる、と言う事だからね。
 まあ、人の商売なんかどーでもいいけどなー。一視聴者としてアニメに求めるのは作品性の十全な展開であって、それにおいてアニメ製作*1者が最も頼りに出来るものはまずコンセプトワーク*2、それから声優、ついで各話数の文芸=脚本絵コンテ演出、越えられない壁があって作画であり、だから作品性重視な受け手の俺が正対しなければならないのは越えられない壁の前の三つで、作画なんてなおまけもいいところだ。

*1:制作の間違い。

*2:デザイン・音楽含む。