黒瀬陽平「キャラクターが、見ている。」

 全体の理路としてはそんなに無理筋でもないけれど。シャフトとufoの間の埋めがたい溝のざっくりした説明としてはすごくいいと思う。
 ただ、二箇所ばかり引例がものすごく気になった。
 いっこめ。『あずまんが大王』のカメラアイに対する意識の高さは、単に原作がカメラアイを非常に強く意識した漫画である事に由来するのであって、『あずまんが大王』とその後勃興した萌え4コマ、例えばそれこそ『ぱにぽに』の間には切断線があるのだからアニメにも手法的差異が見られるのは当たり前だ、というのは『テヅカ・イズ・デッド』が語らなかった部分、id:goito-mineralによる本格的なファミリー4コマ&萌え4コマ史はまだか、であり、そこを拡張することなくキャラクターの自律化の程度において『あずまんが大王』と『ぱにぽにだっしゅ』は同じでなければならなかったという前提を持ち込んだ上で両作品を比較する、という手法はナイーブに過ぎるという謗りはまぬかれ得ないだろう。というか、あんなに立体的・空間的・写実的な画面構成を取る4コママンガって『あずまんが大王』と『ぼのぼの』くらいのもんじゃないのか。フレームの不確定性の高度に抑圧された、映画的4コマ漫画だとこの両作品は考えられるべきであって、あの独特の時間処理も画面構成の写実性と関係している、空間が確定されることでそこに流れる時間が立ち上がってくる、というような関係があるのではないかと思われる。また、『あずまんが大王』以外の萌え4コマではこのような時間処理の常用も画面構成の写実志向もそこまで強くはないのであって、ファミリー4コマ、ストーリー4コマに関する問題を「『ぼのぼの』がその先駆的なものであった可能性は高い」の一語でさらっと片付けた『テヅカ・イズ・デッド』の嘘とも本当とも付かない言いぬけの後続への悪影響は大きい、というか、少なくとも黒瀬論文には露呈している。内語を基本的には用いないあたりもこの両作品に共通して、他の萌え4コマではあまり採用されない技法だったりするよね、なお。客観志向、とでも言うべきか。
 ところで、俺が考案したアニメの作品力を計測する簡便な手法であるところの、その作品でブレイクした声優がその作品のイメージをある程度引っ張ったままシーンの中心に居座り続けたかどうか評価法によれば、『あずまんが大王』は決して失敗作であるとは言えない。
 金田朋子はその後今に至るまで印象的な童女声優としてシーンに欠かせない存在であり続けているし、若本規夫コメディリリーフとしての起用法は飽きられている飽きられているといわれつつもいまだやまない。
 もういっこ気になった点。
 背景と前景の人物を切り離す手法は井出安軌が『花右京メイド隊』で全面的に展開しているし、SDキャラと通常キャラの並存は桜井弘明の常套手段、『アキハバラ電脳組』の桜井回あたりでは多用されている。まあざっと思いついたのがこのあたりってだけで、探せば他にもいくらでも事例はあるだろう。
 シャフト・京アニという03年以降のムーブメントだけでなく、それ以前に先駆的な試みがあった、ということは言及されてしかるべきだが、それはさておいても、井出と桜井はこの論文が掲載された雑誌の編集主幹が評価した作品のクリエイターだったりするわけで、それすら忘却するのか人は、とか思った。