声優批評入門

 主宰のthen-dさんより転載の許可が出ましたので、then-dさん編集の同人誌Tactics/Keyゲーム評論集『永遠の現在』に寄稿しました文章をここに公開します。
 then-dさんのウエブサイトはこちら↓
http://members.jcom.home.ne.jp/then-d/
 なお、『永遠の現在』は残部僅少の由。慌てて通販に走るよろし。
(ついき)
 当時から残ってた誤謬を潰したお。
(ついき)
 通販はもうないそうです。次のイベントでお買い求めください。*1
 参加イベントは
評論系オンリー同人誌即売会「TokyoBookManiax」(10月12日(日))「GameDeep」に委託
コミックマーケット75(12月30日(火))「theoria」
 とのこと。

「声優批評入門」
           夏葉薫

 本稿の目的は、ギャルゲーとは本質的な隣接関係にありながら、その存在を活字メディアからもブロゴスフィアからも批評的には黙殺されている声優に関する諸問題について、その概要を解説する事にある。
 本書を手に取られた読者は、当然ギャルゲー評論に興味がおありかと思う。そのような読者の中から、明日の声優批評を切り開く俊英の現われん事が、私の切なる願いである。


1、何故声優は問題的か
 アニメであれ、ゲームであれ、音声の伴うメディア表現においては、その音声のありようが作品のありようを左右する、というのは、これは論じるを俟たぬ話であろう。
 であれば、音声を担当する声優が作品において重大な部分を担っている存在であるのもまた自明である。
 声優批評が拠って立つのは、まずはこのような自明な問題意識だ。
 作品の、軽重は問わぬにしろとりあえず不可分な形で提供された一部として、声優がそこにある。ならば、それについて考える事は作品理解のためのひとつのアプローチになるはずだ。
 ここまでの議論にはご同意いただける事と思う。
 しかし、ここでひとつの疑問が生じる。そのように重大な問題で声優があるのならば、何故、それは批評的に黙殺されてきたのだろうか。批評の沈黙こそが、声優の作品に対する影響力の小ささのなによりの証拠なのではないか。
 日本における声優文化の歴史が高々五十年しかない事、がまずは答えになるだろう。最初の近代文学セルバンテスの『ドン・キホーテ』が書かれてから、オクスブリッジに英文学科が置かれるまで、一体どれだけの月日が流れただろうか。あるいは、スサノオが最初の歌を詠んでから、『歌経標式』がまとめられるまででもいい。
 批評は現象に対して遅れざるを得ない。五十年の遅れは、誤解を恐れず言えば、短いほうだ。三十五世紀の人間は、もしもそれが今すぐに始まったのならば、日本の声優文化と声優批評はほぼ同時期に産声を上げた、と評価するだろう。三十五世紀人の視点を離れて、我々二十一世紀人の視点に戻れば、老いた批評(家)の沈黙は、むしろ若い知性こそが声優に齧りつくべきである理由を構成するだろう。そこに、広大な文化領域があり、そして既存の批評はまったく手をつけていない。ここで舌なめずりをしないのならば、その若者の心は已に朽ちている、と言ってよかろう。
 もうひとつ、批評の沈黙の理由を挙げるとすれば、それは声優に関する諸問題が、このgooglewikipediaの現代にあってさえ、個々人の研鑽の上でしか可視化されえない、という点だ。何故そこに中原麻衣なのか、を考えるためには、それが三石琴乃ではいけない理由が考えられねばならない。このような思考を展開するためには、彼女らの経歴についての知識だけでは全然足らないのだ。三石が出せる声、出来る芝居についての見通しを持たねばならない。それには、三石と中原の声と芝居を十分な量聞き込んで、そのパターンを己の脳内に刻み込まなければならない。無論、今そこの中原、を考えるのならば、三石琴乃だけで足りようはずはない。豊口めぐみ釘宮理恵植田佳奈神田朱未桑島法子、折笠冨美子、中島沙樹、ゆかな、川澄綾子etcetc。考えなければならない声優はいくらでもいる。一人の声優について考えるには、全ての声優を知らなければならない、とはしばしば言われるところで、全ての声優、というのは無論誇張表現であるのだが、にしても三桁以上のオーダーで声優のモデルを脳内に保持していないのならば、声優に関しては沈黙するしかないのだ。
 既存の批評家は、身の程を知っていた、あるいは怠惰だった。
 身の程を知らないのも、無闇に勤勉なのも、若者の美徳である。
 1980年前後以降に生まれて声優に注目しないオタクを「まともではない」と私が看做すのは、このような理由による。
 あるいは、文壇史的な説明も可能かもしれない。
 オタク系評論の大家・大塚英志が声優ラジオに一時期手を出していた事は知る人ぞ知るところであるが、そこで声優一般の人間性の腐りっぷりを見せ付けられて声優に幻滅したため、評論家としては声優の存在をほぼ無視する方向へ大塚は進んだ。大塚英志が組んだ声優の中でも、このような幻滅に最も大きな貢献をしたのはラジオの最終回に白倉由美に大っ嫌いと言われた桑島法子であろう。
 『エヴァンゲリオン』以降の時代を象徴する声優であり、まずは声と口調でキャラを立てるギャルゲー的演技の第一人者でもある桑島法子が、大塚夫妻との因縁により論壇からパージされた事で、オタク言論はある歪みを、大地震を引き起こす巨大なエネルギーを溜め込んだ。このエネルギーの爆発が、佐藤心時代精神となった、90年代後半から00年代前半にかけてのエロゲ評論ブームである。
 ある意味、この本も、桑島法子大塚英志に与えた影響によって成立しているのだ、とは言う事ができる。
 この本の話が出たところで、エロゲー・ギャルゲーと声優の特別な関係について述べておこう。
 ギャルゲーブームのはじまりは、1994年の『ときめきメモリアル』発売であるとされている。PCエンジンの寿命を数年延ばしたとまで称されるこの大ヒットを受け、雨後の筍の如くコンシューマ向け恋愛SLGが多数制作される事となったのだが、これらの恋愛SLGのプラットフォームとなったのが、プレイステーションセガサターンといった、当時次世代機と称された、CD-ROM標準装備の32ビット〜64ビット級のコンシューマ機である。
 CD-ROMの大容量は美麗なグラフィックとキャラクターボイスの標準化の呼び水となったわけだが、美麗なグラフィックとキャラクターボイスはモニター画面に描かれた人物に思い入れる事を以て旨とする恋愛SLGとは相性がよかった。
 折りしも、1992年から始まった第三次声優ブームの真っ最中。この二つのブームはあっという間に合流して、アニラジも巻き込んで独特の文化圏を形成するに至る。ギャルゲーのプロモーションとして、出演声優にラジオ番組を持たせたり、既存のアニラジ番組ラジオドラマを流したりする事がまたたく間に一般化したのである。
 なお、この文化圏とエロゲー文化圏は微妙に重なり合うようで重なり合わない存在であった。PC-98が主流だったエロゲーでは、音声をつける事はまったく標準化していなかったため、声優に出番がなかったからである。
 後に2000年前後にボイス付きエロゲーが勢力を伸ばし、エロゲー専業声優がアイドル化、同時期にインターネットの普及に伴い彼女らがネットラジオの番組を持たされる、というような事態も起こるのだが、エロゲー専業声優と非エロゲー専業声優はやはり相異なった顔ぶれなのであって、この時期にあっても文化圏間の差異は解消されていなかった、と言っていいだろう。


2、正しい声優の愛し方
 恐らく、声優ファンを自称する人々と交流を持ったことのある方ならば、彼らが本稿でこれまで述べてきた問題意識を、凡そ有していないのではないか、という疑問に囚われる事だろう。
 彼らが興味を持つのは、声優本人のパーソナリティー、そして彼ら彼女らの華やかなビジュアルだ。ケースによっては――坂本真綾水樹奈々ならば――歌、という事もあるだろう。声優としての作品に占める位地に関しては、まるで定見を有してはおらず、人気のバロメーターとしてのメディア露出、せいぜいが声優本人のパーソナリティーの延長として役柄を考えるくらい。
 これは、別段彼らが無能だからこのような態度になるのではない。彼らの無意識にではあれ選択した思想的立場がそうさせるのである。
 声優個々人の実態が作品に優先する、そのような実態をこそ愛するべきだ、という彼らの立場を、私は声優実在論と呼んでいる。
 メディアの表層に現われる声優の像の背後ばかりを見るこのような態度は、これはこれでファン活動としては結構なものであろう。彼らが声優の生活を、殊にCD売り上げを支えている事は間違いのないところだ。また、彼らは声優本人に対して、非常に優しい。声優さんの嫌がる事はなるべくしないように。それが、彼らの倫理だ。
 が、批評に足を踏み入れるのならば、ただのファンではいられない。無論、ファン心理、好きだという気持ちがなければ延々と声優について考え語り続けるなどという事もできないが、声優の嫌がる事を避けても声優批評は十全には展開できないのである。我々は、ただのファンから嫌なファンになる必要がある。評論家は作家の奴隷ではないように、ファンもまた声優の奴隷ではない。声優のご機嫌取りばかりしていては、真実にはいつまで経っても辿り着けないのだ。

 真実から程遠く、しかし一定のもっともらしさを備えた声優ファンの態度に、アフレコ技能者主義、とでも称すべきものがある。作品をある種の工業製品と観念し、その一工程に携わる技術者としてのみ声優を評価する立場である。
 このような立場の問題は、声優の達成した表現と声優の意向の両天秤で後者に重きを置く、いかにも批評性を欠いた声優実在論の問題性に比べて実にわかりにくい。
 まず、まだしもわかりやすく彼らも指摘されれば反駁は出来なかろう問題点から挙げよう。このような、技術だけを評価する立場からは技術によっては克服できない、声優たちのほとんど先天的な限界について目を閉ざす事になってしまう、という点。
 一番大きな限界は、性差であろう。どんなに演技に秀でていたとしても、男が演じる女、女が演じる男には、ある一定のわざとらしさがつきまとう。『シムーン』のような世界観込みのワンオフならば、女性声優による老年男性役もありえるだろう(女性による少年役は広く行われている、というのは周知の事実だろう。これは、むしろ成人男性声優の一般的限界を示す事例であろう)。しかし、全てのアニメがそれ、というのは明らかに辛い。歌舞伎の女形を考えれば、男性声優の女性役もありえなくはないが、それは表現の幅を狭める事になるだろう。
 男女の格差まで持ち出さずとも、顔よりも隠せない声の老化の問題、圧倒的に個性のある声質の有無が左右する説得力の違いなど、技術でカバーできない領域は声による表現には広範につきまとう。本当に棒読みであったとしても、実際に若い、というだけで、ヴェテランが全力で感情の変化を盛り込んだ演技を上回る説得力を発揮する、などという事はざらにある。
 もうひとつの、恐らくアフレコ技能者主義者はその問題性を上手く認識できないかもしれないが、極めて本質的な問題は、作品のコンテクストを担うという声優の重要な機能を阻却しているところだ。その声優の前に演じた役とのイメージの重ね合わせ、人気声優の露出の多さが形作るシーン感、そういうものは、アニメを見、声優の声を聞く経験において、不可分の一部をなしている大変重要な要素だ。声優の芝居にも流行り廃りはあるわけで、全ての声優を上手い下手の数直線上に並べようとするアフレコ技能者主義者は、歴史を無視する愚を犯している。
 アフレコ技能者主義と声優実在論を共に欺瞞として退ける事。そこに、我らが目指すべき真の声優批評の隘路はある。


3、声優批評の原理的不可能性について
 声優批評には、原理的な困難が存在する。それは、声質や芝居というものがそもそも言語による記述にそぐわない、という点である。
 女性の優しい声、と例えば書いたとする。どのような声を思い浮かべただろうか?
 その声は例えば声優で言うと誰であろうか?
 あなたが井上喜久子と答えても名塚佳織と答えても桑島法子と答えても小林美佐と答えても田中真弓と答えても能登麻美子と答えても、それは間違いではない。それはあなたの感性の問題だからだ。
 同じ声を優しいというか冷たいというかは、受け手の恣意に掛かっている。
 無論、その感性の最大公約数、というものは考えられる。先ほどの喩えでいえば、柔らかく優しい声、などとしてやれば、田中真弓あたりはだいたい弾かれるだろう。井上喜久子小林美佐能登麻美子あたりに話は絞られてくるだろう。
 ただ、この場合でも桑島法子名塚佳織が含まれるかどうかなどは議論の余地の多いにあるところで、ここはもう本当に恣意的に線を引くしかないのだ。
 演技についても事情は同じだ。ある同じ演技を、Aさんは上手いといい、Bさんは下手だという。そういう事はありえるし、実際にある。演技もまた受け手の感性的な部分に働きかけるものであるから当然だ。
 だが、最終的にはこのような困難にぶつかるとしても、言葉を重ね、文脈を引き、なんとかある程度の合意は得られるラインはありえるはずだ。
 殊に文脈を考える事は、作品の系譜というある程度実体的なものを参照できる分、共感を得られやすいという側面はあるだろう。


4、キャスティングを読む
 声優の文脈について考えるのに一番いい題材は、キャスティングだ。ひとつの作品の要素としてすでにある一定の意図に従って集められ、配列されているのだから、これは評論してくれといわんばかりでさえあるだろう。
 例として、『To Heart』と『KANON』のキャスティングを考えてみたい。
 声優の文脈、というのは、まずは二つの要素から考えるとわかりやすい。ひとつは、その声優自身の経歴。もうひとつは、他の声優との対比である。
 『To Heart』の場合、PC版は音声なし、PS版とアニメ版から声優が入った作品である。
 まずはメインキャストを見てみよう。
藤田浩之一条和矢
神岸あかり川澄綾子
マルチ:堀江由衣
長岡志保樋口智恵子
来栖川芹香岩男潤子
保科智子久川綾
松原葵飯塚雅弓
姫川琴音氷上恭子
宮内レミィ笠原留美
セリオ:根谷美智子
佐藤雅史:保志総一朗
 ゲームの発売、アニメの放映はともに1999年。
 主演の一城和矢は、1994年に『獣戦士ガルキーバ』のグレイファス、筋骨隆々の獣人戦士役でデビューした当時の若手声優。主演は本作品が初めてであり、その後もアニメでの主演はほぼない。なんでもこなす器用なタイプだが、やや男臭く太い声をしていて、熱血主人公をこなすには落ち着きがありすぎるのが原因かと思われるが、仕事自体は引きもきらない地力のある中堅声優の地位を現在は確保している。
 斜に構えた浩之の性格と雅史に比べると随分大きな体格を表現するための配役であろうと思われる。
 その小柄で線の細い雅史には保志総一郎。今では熱血主人公声優の一人と目されがちだが、『無限のリヴァイアス』以前の当時は『聖ルミナス女学院』や『宇宙海賊ミトの大冒険』で女装男子をやたらにこなしていた時期で、なよなよとしたイメージがつきまとっていた。
 男臭い浩之となよなよした雅史。まずは見事な対比である。
 幼馴染みのメインヒロインに川澄綾子だが、これは比較的特異な起用法という印象を当時は与えた。『星方武侠アウトロースター』もヒロインではあったが、メルフィナは大人しい性格の人造人間であって、あかりの快活さは彼女の経歴の中についぞなかったものだった。今でこそ、その後の『おねがい☆ティーチャー』の縁川小石・『ゲートキーパーズ』の生沢ルリ子などを経て、快活なヒロインをこなす声優の一人と目されがちだが、あかり以前の細い声をさらに細くして演じていたか弱い少女たち――『DTエイトロン』のフィア、『プリンセスナイン』の東ユキなど――にこそ川澄の本領はあった、と主張するファンは多い。そんなファンは『苺ましまろ』にえらく喜んだものだが、それは余談。
 快活なヒロイン、と単純に呼ぶには、あかりはどんくさい。このどんくささの表現として、声自体はか細い川澄を恐らくは持ってきたはずだが、何分川澄史上最大の快活さであるからして、当時の声優で言えばゆかなのような快活な芝居が川澄にはできなかった。感情の変化を声の変化ときっちり対応させ、語尾まで滑舌よくきっちり読む、というのが恐らくはアニメヒロインの基本だが、このような芝居では当時の川澄の芝居はまったくなかった。
 そのため、脇にもアニメ的でない、感情の変化と声の変化の対応は曖昧で、語尾はきちきち切るよりもふわっと抜くような芝居の声優を集めて、演技のリアリティを揃えるキャスティングになった。
 樋口智恵子は、坂本真綾とユニットWhoops!を組んでいた、”もうひとりの坂本真綾”。坂本真綾が感情と声を対応させない、エッジの立った感情表現をするタイプでない事はこれは常識の部類であり、もうひとりの坂本真綾もエッジの寝た芝居を持ち味とする声優である。
 堀江由衣飯塚雅弓久川綾岩男潤子も同じタイプで、本来エッジを立てるタイプの氷上恭子笠原留美はそのエッジを極力寝かせる芝居を請われ、さらにアニメでは脇の脇に追いやられた。なお、川澄綾子千葉紗子以降のエッジ寝かせ声優ブームとは、笠原留美の片言芝居のごとき感情表現から切り離された口調の表現をメインヒロインにまで拡張しよう、という試みに他ならない。
 役者の芝居は揃えるべきか否かは難しい問題だ。端的に言ってしまえば、ケースバイケース、作品の性質によりけりだ。揃えて成功した作品も失敗した作品も、散らして成功した作品も失敗した作品もある。
 『To Heart』、殊にアニメ版は、芝居を揃える事で浩之とあかりの心情を繊細に追いかける恋物語の気配に作品全体を染め上げる事に成功した。この成功がエロゲアニメ化ラッシュの呼び水となったとは評価できる。PS版リリースの際によくよく考え抜いたがゆえの達成である。

 そのようなラッシュの中でアニメ化され、あまり芳しくない評価を与えられたのが、『KANON』だ。
 メインキャストを挙げよう。
相沢祐一私市淳
水瀬名雪國府田マリ子
月宮あゆ堀江由衣
沢渡真琴飯塚雅弓
美坂栞小西寛子佐藤朱*2
川澄舞田村ゆかり
水瀬秋子皆口裕子
美坂香里川澄綾子
倉田佐祐理川上とも子
天野美汐坂本真綾
 演技は、どちらかと言えば揃っている。
 國府田マリ子は素の演技が奈辺にあるのかわかりにくい声優であるが、『KANON』での演技は、後に川上とも子が『AIR』で大成する事になる、極端にテンポを落とし感情のエッジ自体は寝かせつつ台詞に強く節回しをつける、かなり作為の強い芝居だ。keyのゲームが後世に与えた最大の影響はこの種の演技の確立であろうと思われるが、この時点ではまだまだ孤立した試みであった、と言っていい。
 小西寛子も似たような路線だが、彼女自身の素の演技はきっちり感情のエッジを立てる芝居で佐藤朱も『KANON』での芝居は似たようなエッジを寝かせた芝居だが、元来は寝ているというほどには感情のエッジが寝てはいないタイプで、要所要所ではエッジを利かせてきた。國府田・小西佐藤をはじめ、個々の声優のパフォーマンスは決して凡庸ではなかったのが『KANON』という作品である。
 田村ゆかりは完全綾波芝居で、エッジは当然寝かされていた。
 この作為的にエッジを寝かせた三人に、天然でエッジの寝ている堀江由衣飯塚雅弓が配されているわけだが、なまじ似たようなエッジの立ち方で作為度の違う芝居が並んでいるものだから、國府田・小西佐藤・田村はわざとらしく堀江・飯塚は下手に聞こえるという問題を抱えてしまった。
 エッジが寝ているのか寝かされているのかは限界までの距離感で判別する事が出来る。その人の出せる中で精一杯ダイナミックな声の変化をさせているなと感じられれば寝ている、感じられなければ寝かせているのだ。
 寝ているのか寝かせているのか、というかなり明白な区別のある声優陣を、あまり考えもなく、作品の構造と無関係に混在させたがために、東映版『KANON』は腰の据わらない作品となってしまった。小西寛子佐藤朱私市淳杉田智和に替えてエッジの寝た芝居で揃えてきた京都アニメーション版は統一感の演出にはやや成功したが、まあ、大差はない。
 これを、『KANON』がそもそも音声なしのゲームとしてリリースされたがために音声を後からくっつけたがゆえの不都合、と考える事はできなくはない。しかし、ほぼ同様のケースだった『To Heart』が大成功を収めた事を鑑みれば、この説明はどうしたって怪しい。
 結局、キャスティングの際にあまりものを考えなかったがためだ、としか言いようがないだろう。このような怠慢が生じえた要因は、恐らく、keyのスタッフが音声による表現を根本的に重視していないからではなかろうか。
 ボイスなしが業界標準だった『KANON』当時ならともかく、『AIR』『CLANNAD』のボイスなしは、フルボイス標準の業界の動向に完全に背を向けるものである。ここには、なんらかの思想的な根拠があると看做すべきだろう。
 ボイスを入れる事は、ゲーム制作において経済的にも作業的にも大きな負担となるという事実はある。その負担を嫌うという判断はありうる。
 としても、keyは他のメーカーが平凡なテキストも魅力的に聞きなさせてくれると信じて手間隙金をつぎ込んでいる声優たちの表現力を、そのコストに見合うものとは評価していないというのもこれまた事実であろう。『planetarian』以降はボイス化に踏み切ったが、これは時代の趨勢を、競争力へのボイスなしの悪影響を重く見ただけの話ではあるまいか。
 彼らが声優について評価するのは、売り上げへの貢献だけなのではあるまいか。
 だから、どんな演技かどんな声かなど一切気にせず、セールスパワーのありそうなのをずらっと並べるという手法に出たものと思われる。実際、『KANON』のキャスティングの同時代的な評価として、大尽遊びの如き「高いほうからもってこい」である、と言う声は良く聞かれた。
 このようなお大尽キャスティングは一見豪華であるが、結局は高い評価を得られないで終わるケースが多々見られる。
 『To Heart』の例で言えば、樋口智恵子あたりはお大尽キャスティングではまず名前の挙がらない声優である。このような冒険心こそが作品の寿命を長引かせる高い評価に繋がっている事は、記憶されていい。
 このような評価の現われとして、『To Heart2』は発売されているが『KANON2』は噂にすら上がっていない、と言うのは恐らくは卑怯な物言いだろう。
 しかし、『To Heart』の続編は最初からコンシューマ用にリリースされた――『To Heart』はコンシューマギャルゲーのブランドとしても認知されるに至ったのに対し、『リトルバスターズ!』でもkeyのゲームはPCプラットフォームから脱却できないでいる、という事実からは、ギャルゲー文化圏への参入に成功したのがどちらだったのか、文化圏の断絶を越える作品力を備えていたのはどちらだったのかは明らかであるように思える。


5、近年の諸問題
 この項では、近年の声優に関するトピックをいくつか取り上げ、声優批評の観点からそれらをどう考えるべきか、を示していきたい。
・中の人
 ここ数年ネット上などでしばしば声優を意味するものとして、中の人、という表現が用いられることがある。
 元々は、「中の人も大変だなあ」「中の人などいない!」という、吉田戦車の漫画を元にしているという、いないものと看做されるべき裏方への言及のタブー性を用いた笑いとして一世を風靡した、テンプレート会話である。
 声優に関しても、キャラクターの中の人、などという用いられ方をするようになった。当然、「月宮あゆの中の人も大変だな」「中の人などいない!」と言う事になる。
 このような、声優を単なる、言及される事すらタブーである裏方と看做す態度は、声優実在論と声優技能者主義の最悪のアマルガムであり、断乎として退けられなければならない。
 私がその代わりとして提案しているのが、「外の人」という表現である。声優はキャラクターの外の人であり、キャラクターは声優の外の人である。
 どちらが外、ではなく、どちらも外。このような矛盾を生き生きと体現したればこそ、声優は魅力的で、問題的で、つまるところ神秘的なのだ。
 声優の神秘性を悪戯に貶めるような言葉遣いは、批評する対象に対する礼儀として決して許されてはならない。

・『おとボク』問題
 もう随分と前の話のような気がするが、まだ去年の出来事である。
 キャラメルボックス制作のエロゲー処女はお姉さまに恋してる』が『乙女はお姉さまに恋してる』としてアニメ化されるにあたってキャストが変更されたのだが、それに対して原作シナリオライター嵩夜あやが不快の念を自サイトで表明した、という事件である。
 キャスト変更という事態について原理的な結論を言えば、こうだ。キャストは発表メディアと同様作品の全体性の一部であり、である以上、メディアを変更するのならばキャストも変更されてしかるべきだ。キャストだけを不可侵な何かとして護持せよ、という主張は声優の生活を保護するためには有意義であろうが、それ以上の意味は持たない。声優実在論者ではない我々は、声優の生活については括弧に入れて考えるべきだ。あるいは渡邉由紀の日記を読んで声優として成功する事だけが人生ではないと知るべきだ。
 キャスティングについて嵩夜の意向がほぼ完全に無視された事、スターチャイルドが当時売り出そうとしていたユニットAice5のメンバーが全員キャストされていた事で、スターチャイルドのやり方があまりに強引だ、などと称されたのだが、このあたりは些事と言うべきである。
 キャスティングとは、そもそも極めて複雑な過程を経て決定されるものだ。
 レコード会社は、自社の歌手でもある声優を押し込みたい。
 ビデオ販社は、セールスパワーのある人気声優を使いたい。
 制作現場は、作品の完成度を上げられる声優を起用したい。
 声優事務所は、自社の声優にハクのつく仕事こそが欲しい。
 声優は、金のためにも経験をつむにも芝居をしておきたい。
 製作委員会は、できれば安いギャランティーですませたい。
 原作者は、自分の好きな声優のサインがもらえたら嬉しい。
 他にも様々あるだろうが、これらの諸々の要求を突きあわせて、誰もが一応納得できる声優陣をブッキングするのが、キャスティングという行為に他ならない。
 原作シナリオライター(原著作権者でさえない)の意見だけがこのような要求の中で特別に重んじられねばならない、などという理屈はない。
 セールスパワーのある人気声優で組んだユニットが音源制作会社の所属歌手でしかも実力もある程度以上計算できさらにアニメ自体出演者のプレゼンスを上げるようなビッグバジェットの大作である、というのならば、木村まどかのサインはいらない、という嵩夜の主張は多数決の原理で押し流されて当然だろう。
 また、うっかり嵩夜の主張に共感してしまった(スターチャイルドに諸々の口約束を反故にされた、などというあたりは同情するにあまりあるが)人は、声優実在論に毒されているので注意が必要だ。

・声優サッカー
 声紋を取ろうと言うのでもなければ、声に関する客観的な記述は不可能だ。将来的にはアニメやゲームの音声も音響工学的な最適化が図られたりもするのかもしれないが、今はまだ職人的な勘で作るほうも受け取るほうもやっているのが声優の世界である。
 このような感覚的な世界を言語化するには、比喩を用いるのもひとつの方法である。そのような比喩の系譜として私がここ数年展開しているのが、サッカーに声優のパフォーマンスを例える声優サッカーである。
 フォーメーション論は勇み足にもほどがあったが、FW・OH・DH・CB・SBの分類、左右の概念などは声優の分類法として有効なのではないか、と考えている。
 詳しくはhttp://kaolu4seasons.hp.infoseek.co.jp/okiba/seiyu_dict.htmを参照されたい。

枕営業疑惑
 2007年の4月、大手声優事務所アーツビジョンの社長である松田咲實が、前年12月のオーディションで受験者の16歳の少女に合格をエサにわいせつな行為を働いた、として逮捕された。
 この件を受けて、インターネットではこのような性的放縦のまかり通る声優界では、体を使っての諸々の交渉、殊に役をもらうためのキャスティング担当者に対する枕営業が広く行われているに違いない、という憶測が広まった。
 松田の一件は、キャスティング担当者への枕営業とは性質を異にする。事務所の中に留まる話であって、アニメの製作現場は直接には関わってこないものだ。だから、この件がそのまま枕営業の実在の証明である、とは言えない。
 少数の男性が多数の女性に対して独裁的な権力を揮える場、という性質をアニメの音響制作の世界は少なからず有しており、それがセクハラ・パワハラの温床になりうる事、ちょっと体を触られた、くらいの話ならば実際にあってもおかしくはないとはまず言える。
 が、実際に枕営業でキャスティングが決定されたと証明されたケースは、管見する限り存在しない。
 ネットでは『Zガンダム』のフォウ役キャスト変更がそうである、などとされているが、天下のゆかなになにを無礼な事を、と言うほかあるまい。
 このような謬説が広まるのは、声優業界が閉鎖的で、内情をあまり出していないから、というのもあるが、声優の優れたパフォーマンスとはいかなるものか、について、世人が凡そ定見を有していないがゆえに、枕営業を様々に納得の行かないキャスティングの説明モデルとして引っ張り出さざるを得ないという事情もある。
 迷信は啓蒙によって追放するしかない。声優批評の出番は、ここにもある。


6、跋
 以上、かなり駆け足にはなったが、声優批評の現状と方向性についてご紹介してきた。
 声優批評はまだ産声をあげたばかりのジャンルであり、また、私自身浅学非才の身、至らぬところは多々あろうかと思われる。
 読者諸姉諸兄の中から、私を蹴散らして声優批評の深みに至る賢者の現れん事を希い、この雑駁な一文をしめくらせていただく事とする。

*1:http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20080912#c

*2:この項、大いに事実誤認。全体の論旨はあまり変わらないが、小西寛子はPS版まで。東映版から佐藤朱が担当。どのみち、佐藤朱は非常に良かった。詳しくはhttp://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=473384&log=20070831