コンテンツ文化史学会第2回例会『ライトノベルと文学』@芝浦工大豊洲キャンパス

http://www.contentshistory.org/2009/09/14/528/
 行ってきました。
・大島丈志「ライトノベルにおける日本近代文学の受容」
 『文学少女』と『半分の月がのぼる空』の宮沢賢治引用からライトノベル近代文学の関係を考える、と言った発表。
 発表者は文教大学教育学部国語専修、千葉大学の文学学士で千葉大学大学院博士。
http://jglobal.jst.go.jp/public/20090422/200901032935816600
 所属学会を見るに国文学畑の児童文学研究者、といった位置づけか。
 セカイ系に言及するに当たってぷるにえブックマーク*1を参照しない論は悉く無価値、という基準が俺の中にはあるのだけれど、冒頭、『銀河鉄道の夜』はセカイ系か否か、『半月』はセカイ系か否かを大変粗雑な手つきで論じる*2あたりからもう悪い予感は大爆発。
 『文学少女』と『半月』の宮沢賢治の用いられている部分を挙げて検討していく、賢治の悩める個人としての側面を強調する『文学少女』、死のモチーフを仮借する、心情を仮託する『半月』とまあ、それはいいのだが*3、常識的に考えればそこにあるのはこの二作品間の差異であるはずなのだが、ライトノベルジャンルの近代文学の受容、という問題に強引に持っていこうとして無理のある共通点を抽出しようとして、教育的な主題を導出していてよくない、と来る。
 なんだろう、デビュー以来間テクスト性戦略*4一本槍の一山いくらの秀才橋本紡と名状しがたい奇矯さと説明しがたい語りの豪腕でぐいぐい引っ張る天下に双なき大野村美月が同じことしてるわけなんてはなっからないと思うのだけれど。むしろ宮沢賢治受容の広がり、このような多様な作家性を許容するライトノベルの懐の広さ、みたいなところに持っていったほうが話がまとまるんじゃないのかな。
 でなければ『文学少女』各編の文学作品に対する読みを逐一検討し、『ニューロマンサー』と『猫目狩り』、『バトルシップガール』と『歌う船』、『流れ星が消えないうちに』と『キッチン』、そして『半月』と『イリヤ*5の比較を通して橋本紡間テクスト性戦略を明らかにして、その上でなおも道徳的教化の具に先行テクストをしているとどちらも言える、と言うか。多分言えないと思いますが、どの道、現状ではその結論を導出するにはステップが足りなすぎる。
 結論の補強としてどちらもキャラクターがデータベース的とかゆっちゃってるのはもう、あちゃー、としか。アカデミシャンが実績ほしさにオタクコンテンツにちょろっと手を出してみましたという印象。そうでないというのならばもっとブリリアントであるかリゴリスティックであるかな読みを見せて欲しい。
・井上乃武「コンテンツ横断的テクスト受容の試み–児童文学からライトノベルへ」
 都立大の国文学出身の児童文学研究者、でいいのかしら。
 小沢正のファンタジー論を元に、岡田淳作品と『十二国記』の比較を通して創造者の恣意、というモチーフを明らかにする、と言った発表。
 手堅く、隙なく、広がりなくという、お手本のような学会発表。
 創造者の恣意というモチーフは恐らく児童文学領域に留まるものではない、というか、身内の不幸もネタにする作家の業とかと不可分な関係にあるはずで、そういう広がりへの示唆はもっとあってもよかったのではないかしら、と思いました。あー、あとアレね、「宇宙精神と収容所」的な。
 話をまとめようと思ったらここまでだろうけどその先って全然あるじゃん、という不満がたまる、まあ、今後の展開が楽しみになる発表でした。
・山中智省「揺れ動く「ライトノベル」–ジャンル形成の現在」
 横浜国大の院生。
 SF・ミステリ方面をばっさりとカットした新聞・雑誌メディアでライトノベルがどう扱われているか、大宅壮一文庫で調べてきました、という発表。
 よく調べましたね、としか。
 ただ、検索ワードとして「いちご文学」「15文学」を試してないのはどうなんですかねって質問でねちねちとツッコミ*6をいれてた榎本秋氏にゆったらこれだから東大は最悪だと言われました。
 
 全体に、リゴリスティックな研究の場を想像して行ってみたら、案外ゆるゆるという印象。最後の発表とか、違う版型の本文があったらテキストクリティークを試みないとか、俺が受けてきた教育、俺が敵わないと思った研究室のみんなの振る舞いからすると考えられないんだぜ。
 文学研究がやりたいのか文芸評論がやりたいのかもいまいちはっきりしなかったし、なんかこう、うーん、こういう場ができたことは評価するけれど、その中身が伴っていたかは、うーん、疑問。て榎本さんも言ってました。

*1:http://web.archive.org/web/20030922065019/http://www.phoenix-c.or.jp/~kanakan/sekaikei.htmlでなければせめて惑星開発委員会の記事http://members.at.infoseek.co.jp/toumyoujisourin/jiten-sekaikei.htmくらいには言及していただきたいところ。どちらでも明言されているのは、セカイ系の勃興が『エヴァ』後の気分と結びついている、ということ。この一点を外して宮沢賢治だの太宰治だの村上春樹だの曾丹だの橘暁覧だの李賀だのへ遡るのは端的に無意味。

*2:キミとボクとセカイ以外の中間項が登場するかどうか、という基準で論じるのだが、三大セカイ系の『最終兵器彼女』や『イリヤの空 UFOの夏』に中間項、主人公カップル以外の登場人物、学校や国家や家族の関係者が登場しなかったかどうかを仔細に検討することをお奨めする。『ほしのこえ』は短編だから極端に人物が少なく、実質ミカコとノボルの二人だけの話と言えなくはないが。

*3:文学少女』の読みとしてはやや浅い。以下ネタバレ注意。『慟哭の巡礼者』の美羽のパクリという展開で前提されているのは、賢治作品の奇想性だ。

*4:婉曲表現。『猫目狩り』『ニューロマンサー』でググれ。

*5:半分の月がのぼる空』は難病モノの変奏であるという斎藤環の『最終兵器彼女』理解(http://d.hatena.ne.jp/imaki/20040220#p2)の逆を衝いて『リバーズエンド』の失敗を踏まえてセカイ系の変奏としての難病モノを試みたのだ、と読むと、夏目が椎名が浅羽にそうしたように裕一を殴った事の意味が了解されるだろう。

*6:概ね、一部の例を針小棒大に騒ぎ立てやがってアホか、というような内容。基本的に賛成します。