古橋秀之『龍盤七朝ケルベロス壱』
龍盤七朝 ケルベロス 壱 (メディアワークス文庫 ふ 1-1)
- 作者: 古橋秀之,藤城陽
- 出版社/メーカー: アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2009/12/16
- メディア: 文庫
- 購入: 11人 クリック: 320回
- この商品を含むブログ (91件) を見る
『IX』の時も一文字の無駄もない(Ⓒid:rulia046)、と思わされたものだけれど、まさかそこからここまで進化してくるとは*1。
古橋秀之を褒めることは、基本的に無駄だ。それは正方形は四角いと言うような、当たり前の事実を再確認するような作業にしかならないから。
古橋作品には、常に、ある種のエンタテインメントがやってはならないことはなにもなく、やらなければならないことはすべてある。語選択は常に完璧だし、登場人物は自らの生を生き生きと生き、ビジュアルイメージは派手派でしく*2、アイデアは溢れかえり*3、世界の理不尽はただそのようにあって、しかもそれはそのままに絶望をは意味しない。
子供だけじゃなくて大人も、そして人間だけじゃなくて人間の生きる世界もまた成長する――と言うより、全てが成長の途上にある存在として是認された、類い希な美しい小説
http://twitter.com/eselsfest/status/6141439578
というのは『ソリッドファイター』の評だが、古橋秀之はいつもそんな小説ばかり書き続けてきたのだ、とは勿論言わねばならない。その死と暴力の意匠に反して、絶望を弄ぶ暗黒小説趣味*4からは最も遠いところにいる*5作家なのだ。
そのような世界観の結節点こそが、Vシリーズでありトトカミさまでありミラであり今回のヒロインの蘭珈がそうであるところのロリババァなのではないか、とまで言っては牽強付会か。
とかく、完璧。読まない人は何を考えているのか疑問に思わざるを得ない。
*1:『IX』の時との違いを挙げれば、大きくはふたつ。ひとつは内面描写を減らし、長広舌の裏に人物の心情を隠したこと。もうひとつは、螺粠に罪炎のような”人間味”を設定しなかったこと。ある種の武侠小説らしさを目指して導入し、単体の作品としては十分に機能した部分を捨て、作家本来の作法に戻っただけといえばそうなのだが、漢文脈の古雅な雰囲気はしっかりと自家薬籠中のものとしているように見受けられる。
*2:自在に飛び交う鏢に、板野一郎特技監督でアニメ化してくれ、と思ったのはヒミツだ。
*3:不具の怪物の誕生譚というモチーフは『シグルイ』、対象者を苛み続ける震動には『銃夢LAST ORDER』を連想しなくはなかったが、偶然の一致ならば気にするほどではないし、そのイメージの引用ならば間テクスト性戦略を仕掛ける対象の選択として実に趣味がいい。
*5:ところで、単に絶望してしまうには世界はそんなに悪くはない、という事実は、ある意味で残酷であり、絶望的である。