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http://d.hatena.ne.jp/toruot/20100219/p1
それはもう、モノはいいようという奴なのでは。
出てこないと出てくるけれどすっ飛ばされるは違いますし、その図の図式は無条件で受け入れられるものではありません。イリヤの属するシャカイの向こうにしかセカイがない、というのもおかしな話で、浅羽とイリヤがそれぞれを保持すべきシャカイから、出会いによってそれぞれに放逐されたことによりセカイと出会ったのだ、そのように放逐する主体としてのシャカイはだから十分な強度をもって描かれねばならないのであり、そしてそれは現に描かれた、キミとボク、シャカイ、セカイの三項が全て描かれた、これはセカイ系を超克した傑作である、などという論の張り方は果たして不可能でしょうか? もちろん十分可能です。だからセカイ系論議は馬鹿馬鹿しい、セカイ系に結局都合のいい典型はないし、そんな空疎なものであるのならば、あえてこだわる必要もなかろうとそう言っているのです*1。
セカイ系の定義に当てはまるかどうかを議論するよりはそのようにイリヤの属する社会に参加しない浅羽の態度を、単に『イリヤの空、UFOの夏』という作品の特徴として論じたほうが実り多い議論になるのではないでしょうか。
セカイ系論議が葬送されねばならないのは、まさにあなたがしたような「セカイ系の定義」なる空疎な入れ物に作品を無理やり押し込める、そのために入れ物のほうもつくりかえるような作業が、知的で有意義な議論であるかのように扱われる、その状況が不健全だからです。学会発表で宮沢賢治はセカイ系かどうかウダウダ論じるような状況は馬鹿馬鹿しいと言うしかないでしょう。
そういう論理的なアクロバットも茶飲み話には丁度いいとは思いますが、まあ、茶飲み話程度の話です。学会発表や商業的な評論の場に持ち出されてはたまらない。とはいえ、できるのはお互いブログで吹き上がるくらいですが。