プリンセスプリンセス

 女の生き様の話だよな、これ。
 ということはつまり女装っ子は女の代替物でしかなく、結局男は女にしか欲望しない世界なのね。
 意外と保守的だよなあ、というか。
 『シムーン』が女だらけに見えてその実尾崎豊ワールドの話なのとは好対照だ。
 サラリーマンにはなりたかねえ、と。
 

錬金3級 まじかる?ぽか〜ん

 声優批評理論の新生面として、今俄然注目されている*1のがb-c平面理論です。
 X軸にちんこ⇔非ちんこ、Y軸にビッチ⇔非ビッチを取り、この平面上の配置によってある作品のキャスティングや声優の声・演技の抽斗の幅を理解するという、そういう理論です。
 これにより、「『ゼーガペイン』川澄悪いとは言わないんだけどさ、どうにもちんこくなくって、そこがこう、謎の女戦士的に不満が」「でも花澤香菜があれだけちんこいわけですからそこにもっとちんこいの入れたらバランス崩れますよ」「そこは話が逆でさ、ミサキ先輩に十分ちんこいの――平野綾とか野中藍とかを入れて、であっちには松本彩乃とかのちんこくないの入れるべきなんであって」「あなたはムスメット声優が好き過ぎです」「まあそらそうだが、そうじゃなくてだな」「わかりますよ。でも松本彩乃じゃビチ過ぎませんか。そしてあそこに非ビッチって思ったらちんこくなっちゃうのはむしろ必然だと思うんですが」「うーん……」みたいな会話が可能になります。
 ところで無論生えている声優とは堀江由衣その人以外の事をは言わないのですが、女性声優について考える軸としてちんこがありうる、というのは大変重要な、普遍性のある示唆であって、それが堀江由衣から始まった、というのはなんとも象徴的な、やはり00年代の声優言説空間は堀江由衣に支配されていたんだなと思わされる事実であります。
 で。
 このアニメにおいては、第一象限に平野綾、第二象限に明坂聡美第四象限斎藤桃子、原点に生天目仁美と第三象限以外に一人ずつ声優が配置されているわけです。
 第三象限、非ちんこ非ビッチに声優がいないとは、これはつまり性の対象である事に偏った配置であるという事です。
 その一方で、ちんこさもビチさも控えめ。例えば平野綾ってのは言ってしまえばポークビッツ級、それを十分際立たせるためにビッチクイーン・ナバ様を原点に置いているとは言え、やはりそこまではちんこくないのです。
 ところでこの原点にナバ様戦略は斎藤桃子のビチさを抑える役にも立っているわけで、性の対象に偏した配図を持ちながらもそこまでビチくもちんこくも見せたくはない、という作り手の意図がよく表現されていると言えます。
 性の対象でありえつ、そこまでごっつくエロスでないものを、人は可愛いと言います。
 可愛いなあ、みんな。

*1:提唱者は某アニメ・声優関係フリーペーパー副編集長。