庵野秀明総監督『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破』
二回目。
あー、今まだ二回目かよって言っただろー! って某所でゆったんだけどダレも『シムーン』ネタかよってゆってくれなくって寂しかったです。二話冒頭のアーエルな。シムーン脳がまだ治りません。治しません。
川崎チネチッタ、最前列ど真ん中で。
普通に泣けました。
映像的な衝撃は前回ほどは勿論受けなかったのだけれど、その分脚本の妙を楽しめた、というか。
一例を挙げればシンジの「エヴァに乗るのが嬉しい人もいるんだ」とマリの「エヴァに乗るか乗らないかとかそんなことで悩むやつもいるんだ」とか、細かいところの照応関係が積み重ねられた挙句、ミサトさんには届かせられなかった手をシンジが届かせる、という流れには普通に感情を持っていかれました。
使徒は単に次々やってくるので、作品全体の経糸を因果性で通すのが結構難しいがためにこういう呼応関係を大量投入しているのだろうけれど、なんか、榎戸洋司作品ぽいなあという印象。
さて。
実のところ、フィルム上で確認できる限り明示的に*1失われた旧作の登場人物、というのは、過去の死者たちを別にすれば、二人目のレイ、加持、カヲルくらいのものなわけです。
あとはみんな人類補完計画に巻き込まれて、まあ一応どうなったかわからない。
この三人の中で、あえてシンジが返してもらわなければならないのが誰かといえば、それは当然二人目のレイということになるわけです。カヲルは敵である使徒だし、加持はどうしたって疎遠な人物でなくはなかったから。
なので、
http://d.hatena.ne.jp/megyumi/20090624/p7
序から引き続きのレイちゃんは久し振りに2人目のレイちゃんが蘇りました
という林原めぐみの言はあまりに鋭いと思う。
『少女革命ウテナ』で喩えれば、社会への回路を開き先に立って導こうとする二人目のレイはウテナ、心を閉ざして全てをやり過ごそうとするシンジはアンシーなのであって、アンシーがウテナを追ったようにはシンジがレイを追えなかったのは、結局「君は知らないんだ。一緒にいることで、ボクがどんなに幸せだったか……」と二人目がシンジに言ってやれなかったからに他なりません。
それをウテナとアンシーの役割を逆転させた劇場版で補完する、というのはなんというか、俺『アドゥレセンス黙示録』も大好きなんだよねえ、としかいいようがありません*2
言わなきゃわかんねえよ/ちゃんと話し合おうよというのは『ヱヴァ』では貫徹されている『エヴァ』にはなかった部分で、作品内部論理で考えればNERVって組織がよりきちんとしたものになっているのだろうし、それを制作状況の反映と見れば今回はスタッフワークをしっかりしたぞ、という庵野総監督の自信の表れということができます。
ただ、ちゃんと話し合ってるのは、そうしたほうがいい、という前提が人々にある、えーと、いっちゃやミサトさんがシンジくんを引き取る前にビジネス書でも一冊読んだんじゃねえかなという程度のことであり、環境さえ整えば個々人の性格がそんなに変わったとは思えない『エヴァ』キャラでも穏やかで前向きな人間関係を作れるという、まあそういうことだと思うのです。
すたぶ。