恋愛ゲームにおける空間的な広がりとはナンパゲーのゲームフィールドに他ならず、台東区の風俗を活写した「最後のナンパゲー」『絶滅キング』の不発と共に業界のスタンダードとしては衰退したんじゃなかったっけ? けー?
 あの実写背景には味があった。台東区性、東京土着の生活感覚が根底に流れてて。

http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20070831AS1K3100231082007.html
 この記事が結構いい線をついている、ということ、そろそろ我々はアスカ派*1の悪質なプロパガンダである綾波セク母*2説に別れを告げて、綾波がどれだけかっこよかったか、を語るべきなのです。

傷だらけになって人造の巨人に乗り込み、無言で毅然(きぜん)と敵と戦い続ける綾波

 毅然と敵と戦い続ける、というのがつまり、虚心坦懐*3に見たときの綾波像、だと思うのよ。自分は必ずしも唯一無二の存在ではない、という事実を受け入れ、その時々で己の務めを果たし続ける。メインキャラでは綾波は一番社会化されている――大人だ、と言い換えてもいい。笑って死ねる英雄的な人格。平然と自爆するガンダムパイロットたち、残った右がやけに熱い葉隠覚悟と同時代的な感性で造形されたキャラクターだ、とは言っていい。
 セク母説、ほたる的綾波*4は特にオタク界隈では否定するにしろ肯定するにしろどうしても根強くて、まあそれが結局当時既に存在したアニメ的な類型に照らし合わせて『エヴァ』ヒロインに萌える、ということでしかなかったわけで、綾波のイコンがそういう文化圏を越えて広まったことの説明モデルとしては弱い。
 毅然として、無造作に死ぬ、身を鴻毛の軽きに比す1銭5厘の兵士のエトス。シンジはそれを理解できず怖がる、という、『新世紀エヴァンゲリオン』てそんな話じゃなかったっけか。
 いんあざーわーず。アスカ派って話になんないよね。他者性、なんて言い出してみるのなら、結局ただのAC仲間のアスカよりもプロ兵士*5綾波だろうに。
 元記事リンク切れなのでコピペ。

*1:人と違う事を言ってみて得意げな顔をする人、の意。あるいはいかにもな80年代的アニメヒロインが大好きなんだけど素直になれないお年頃。またはアニメとか知らないので意地っ張りなヒロインに初ラブなイノセントボーイ。

*2:セックスできる母親の意。シンジとひとつになりたい気持ちを抑えて自ら決然として死を選ぶ綾波をどう解釈するとこういう意見が出てくるのか。より詳細に言うのならば、綾波はセク母だからダメ説。綾波の母性的な部分を不当にクローズアップする立場。

*3:って俺が言う時はイデオロギッシュな事を口走っている時、というのは覚えておこうね。

*4:理不尽な運命に押し潰されるかわいそうな少女、と綾波を見做す態度。いつでも背筋のぴっと伸びた綾波を見ず既存のアニメキャラ類型=まさに儚い悲劇のヒロイン”ほたる”に綾波を押し込めようとする、これはこれで本編の綾波を見ない態度。綾波は感情を禁じられているわけではない、恐らく。

*5:綾波の立派さをユイと結びつける言説にも、とりあえず俺は与せない。2人目と3人目が明らかに異なった個性の持ち主として描かれているのだから、ユイとレイも十分に違った人間と見做されてしかるべきだ。母親の因子を色濃く持つ、大人な女、とは姉の謂いだ、というところから姉性論的『エヴァ』解釈、は展開できなくはないだろうが、とりあえず今は擱く。なお、『ヱヴァ』の電車の中のシーンは綾波の姉性を強調するものでないとは言いがたい。

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