http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20070831AS1K3100231082007.html
 この記事が結構いい線をついている、ということ、そろそろ我々はアスカ派*1の悪質なプロパガンダである綾波セク母*2説に別れを告げて、綾波がどれだけかっこよかったか、を語るべきなのです。

傷だらけになって人造の巨人に乗り込み、無言で毅然(きぜん)と敵と戦い続ける綾波

 毅然と敵と戦い続ける、というのがつまり、虚心坦懐*3に見たときの綾波像、だと思うのよ。自分は必ずしも唯一無二の存在ではない、という事実を受け入れ、その時々で己の務めを果たし続ける。メインキャラでは綾波は一番社会化されている――大人だ、と言い換えてもいい。笑って死ねる英雄的な人格。平然と自爆するガンダムパイロットたち、残った右がやけに熱い葉隠覚悟と同時代的な感性で造形されたキャラクターだ、とは言っていい。
 セク母説、ほたる的綾波*4は特にオタク界隈では否定するにしろ肯定するにしろどうしても根強くて、まあそれが結局当時既に存在したアニメ的な類型に照らし合わせて『エヴァ』ヒロインに萌える、ということでしかなかったわけで、綾波のイコンがそういう文化圏を越えて広まったことの説明モデルとしては弱い。
 毅然として、無造作に死ぬ、身を鴻毛の軽きに比す1銭5厘の兵士のエトス。シンジはそれを理解できず怖がる、という、『新世紀エヴァンゲリオン』てそんな話じゃなかったっけか。
 いんあざーわーず。アスカ派って話になんないよね。他者性、なんて言い出してみるのなら、結局ただのAC仲間のアスカよりもプロ兵士*5綾波だろうに。
 元記事リンク切れなのでコピペ。

春秋(9/1)

 綾波レイに思いを寄せる男性は日本中に100万人はいるだろう。冷淡なほど無口で無表情な14歳の謎の少女。包帯姿で現れた現代の女神は日本アニメの申し子だ。その儚(はかな)げな存在感の内には、決然とした「迷いのなさ」を秘めている。

▼95年にテレビ放送された『新世紀エヴァンゲリオン』の新作映画が、きょう公開される。その準主人公の絶大な人気は10年たった今も衰える気配がない。綾波を探しマニアの街、秋葉原を歩いてみた。精巧な立体モデルの「フィギュア」は綾波だけは売り切れ。ネット競売では数十万円の値が付く希少品もある。

▼現実社会では明るく元気な者の周りに人が集まりやすい。暗く思い詰めたような人柄に魅了されるのは、なぜなのか。フィギュア製作の専門家に聞くと、綾波モデルを集めているのは30代と40代前半がほとんどだという。アニメやネットが築く仮想空間には、人の深層心理をえぐり出す魔力があるに違いない。

綾波レイが最初に「降臨」したとき、日本人はバブル崩壊で自信喪失のどん底にいた。傷だらけになって人造の巨人に乗り込み、無言で毅然(きぜん)と敵と戦い続ける綾波への共感はその時代に根ざす。フィギュアとは、無意識の信仰を形にした現代の偶像だろう。経済は立ち直っても、日本人の心には虚(うつ)ろが残ったのか。

*1:人と違う事を言ってみて得意げな顔をする人、の意。あるいはいかにもな80年代的アニメヒロインが大好きなんだけど素直になれないお年頃。またはアニメとか知らないので意地っ張りなヒロインに初ラブなイノセントボーイ。

*2:セックスできる母親の意。シンジとひとつになりたい気持ちを抑えて自ら決然として死を選ぶ綾波をどう解釈するとこういう意見が出てくるのか。より詳細に言うのならば、綾波はセク母だからダメ説。綾波の母性的な部分を不当にクローズアップする立場。

*3:って俺が言う時はイデオロギッシュな事を口走っている時、というのは覚えておこうね。

*4:理不尽な運命に押し潰されるかわいそうな少女、と綾波を見做す態度。いつでも背筋のぴっと伸びた綾波を見ず既存のアニメキャラ類型=まさに儚い悲劇のヒロイン”ほたる”に綾波を押し込めようとする、これはこれで本編の綾波を見ない態度。綾波は感情を禁じられているわけではない、恐らく。

*5:綾波の立派さをユイと結びつける言説にも、とりあえず俺は与せない。2人目と3人目が明らかに異なった個性の持ち主として描かれているのだから、ユイとレイも十分に違った人間と見做されてしかるべきだ。母親の因子を色濃く持つ、大人な女、とは姉の謂いだ、というところから姉性論的『エヴァ』解釈、は展開できなくはないだろうが、とりあえず今は擱く。なお、『ヱヴァ』の電車の中のシーンは綾波の姉性を強調するものでないとは言いがたい。