http://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2005/08/post_274.html
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 モノーキーhttp://blog.goo.ne.jp/kamimagi/e/4d23f567ca0c4c446849cca6f83bffe7より。

「すばらしい体験をした」という感動は、その物語に作者がこめた意図を、読者が「自分で発見した」から生じる。そこにはある程度の手間がないと、「自分の発見」という形で消費者の頭に入っていかない。

 というのは俗流受容理論に寄りすぎているきらいはあるが俺が何かでここんとこ陥っていた不安をすっきりと言い当てていてくれて、ほほう、と思ったのだけれど、その後の論理展開がまるでいただけない。

予断を持って、あるいは既存のストーリーを強引に当てはめて本を読むと、作者の意図した興奮や感動といったものは読者に伝わりにくくなる。

内容は分かる。ところが、本をたくさん読んだ人ほど過去のプロットを多く暗記しており、先入観を持って本を読む。作者がどんなに文章を工夫しようと、読書好きの人間にはその努力は伝わらない。

 というのはこれは「静的メディア」にだけ限定された話では無論ない。ノベルゲーなり映画なりの画面/音声演出からも先の展開は読める。実際に視界には入っていなくてもね。
 先の文章が視界に入っている事と先の展開が読めてしまう事はレベルの違う話で、そこを混同している。そのために持ち出されるのが「通常の文字理解は「目->音声化->理解」なのだが、どうも「目->直接理解」という経路も、人間の頭の中にはあるようだ(速読術なんかはそれを利用していると主張している。出来ないけれど)。」というトンデモ理論で、流石にトンデモなので無視してしまえば、やはり「静的メディア」だけが先読み可能という主張は通らないだろう。
 「PCゲームは、こうした「慣れ」とか「先読み」といった問題を、軽く乗り越える。」のではなく、単に筆者がPCゲームに不慣れなだけだろう。
 強制スクロールが始まったからって慌てるなんてよほどゲームやらない人だけだ。慣れれば、あー、こっから作者のイイタイコトまたはエモーショナルに盛り上がって欲しいところねー、と冷めた目で見られるようになります。
 後半はもうなんつうか。