唐突に思った事。
 2000年時点で堀江由衣にはちんこが生えている、と指摘する事は、ファンによる理解はプロデュースサイドの演出を超克しうる、という可能性の提示でもあった。それが、野川さくら登場以前では、史上最もプロモーション的な意図が透けて見えた(にも関わらずTVアニメ声優として一定の地歩を確保し遂せた)声優・堀江由衣においてこそ見出された、というのも実に象徴的な話であろう。
 ここから、我々は一つの教訓を引き出す事ができる。”役者としての実力”とやらとは無関係に役を与えられているはずの、いわば中の人でしかないはずのアイドル声優においてすら、我々は彼女達の声を作品の表層として受容する事が、外の人と彼女達を見做す事が、作品論に彼女達の声を組み入れる事ができるのだから、声優アイドルビジネスを揶揄するだけで事足れりとしてはならない。声優は語りうる、少なくとも原理的な不可能性に突き当たるところまでは、突き詰められる。
 このような世界観のシンボルが、堀江由衣股間に隆々とそそり立つ偉大なるペニスであった。
 転じて、2005年の段階で植田佳奈やまなこを襲う漫画を描く事は、単に『マリみて』以降の百合プチブームに追従するプロモーションサイドの策謀に踊らされた行為に他ならないだろう。
 ましてやそれがふたなりとして表象されるのであれば、その反動性はあまりに明らかだ。
 参考資料。http://www.google.com/search?hs=f7l&hl=en&lr=&c2coff=1&client=opera&rls=ja&q=%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A1%E3%82%93%E3%81%93%E5%A4%A7%E5%A5%BD%E3%81%8D%E5%85%9A%E3%80%80site%3Akaoriha.org&btnG=Search
 そのような歴史的な視角は↓のような切り口からは失われてしまうのではなかろうか、という危惧を俺は抱いている。
http://keshiki.rdy.jp/blog/archives/2005/08/post_483.html
http://keshiki.rdy.jp/blog/archives/2006/01/post_634.html
 レズ声優的な想像力とやおい的な想像力がパラレルな関係にあると言う事自体を否定するものではない、というかそのような指摘だけにならば全力で首肯するものであるけれど、女性声優たちが『マリみて』以降、急にデートを始めた、という歴史的事実のまさに歴史的な評価は忘れてはいけないと思う。http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20051124#1132796461この図表の『マリみて』声優率の高さは壮観ですらあるだろう。
 ”女性声優さんたちのノリは、女子高、或いは女だらけの部活。”という指摘も正しい。呆れるほどに正しい。だが、それではそのようなノリを露出させたのは何者だったのかという問いが抜け落ちてしまう。
 『マリみて』-ジェネオンエンタテインメント-電通、すなわち俺らは電通に踊らされてるんだ、と言っては妄想的に過ぎる、というか陰謀論だが。
 
 ……なんだろう、これ。