長谷敏司『円環少女 (4)よるべなき鉄槌』
- 作者: 長谷敏司,深遊
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2006/10/31
- メディア: 文庫
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さておき。
手からビームが出る理由の差異化ゲームについて。
技術体系とは世界認識の体系そのものであって、である以上、相異なった手からビームが出る理由≒手からビームを出す技術は相異なった世界認識=世界観≒世界設定を要請する。
手からビームが出ない事は一つの絶望として観念されうるという事実が手からビームが出る理由の差異化ゲームの最大の動因であると言う事をどうにも俺は見落としていたらしい。
えー、つまり2年近く経ってやっとみー兄http://d.hatena.ne.jp/sayume/20041127#p1の言っていた事がわかった、という話。頭悪いね、どうにも。
なんでもあり≒手からビームを出せる希望が枠組みの欠如として描かれるのならば、世界設定とキャラクター描写は乖離しなけらばならない。世界設定が作品全体を縛る世界観=枠組みである事は許されない。
手からビームを出せる希望とは言い換えるのならば世の中そんなに捨てたものではない、というメッセージ*1であって、そのようなメッセージ/テーマの伝達機能に小説が特化*2した瞬間に世界観と世界設定は≠となり、世界設定は手からビームが出る理由に特化する、という事。
つまり『円環少女』は手からビームを出せない絶望を基調に希望を探す物語だということです。
一般にマジックキャンセルは主人公特権に付随しがちな能力設定であって、それはマジック=手からビームを出す技術=魔法使いその人の世界認識をキャンセルするというのは、即ち認識し思想するワンセットとしてのキャラクターをまるごと否定する=殺す能力に他ならないからなんだけれど、この作品の場合は手からビームを出せるようにする能力がせんせに割り振られているのが面白いですね、とか。
手からビームは出さないが、『円環少女』のキャラクターは。
*1:最もアクチュアル/世俗的/散文的に、つまり脱邪気眼化された形で言うのならば。邪気眼性はオタ欲一元論と安易な現実回帰説教を呼び込む危険性があり、「みんなが潜った/潜りかけた過去の痛い話」にしておかないのならば、あまり軽々しく取り扱うべきトピックでもない。邪気眼は日のないところに立つ煙として使い良すぎる。「大塚英志をdisってる奴には邪気眼の臭いがする」なんて事は、その気になればいくらでも言えるのだから。
*2:メッセージのみに小説が縮退する事への是非はこの際措く。しかし、縮退したその先で語られるメッセージが世界は広い、であるという、うるさいと叫ぶ奴が一番うるさいという小噺にも似た自己言及的な構造は、作品世界を十分には貧しくしないものに仕立て上げる豊かな矛盾として機能するだろう。作家の世界認識の投影であってはならない手からビームが出る理由を持ち出さねばならない、という、実作上は大変に緩やかな縛りなのである事からもそれは推測されうる。