至極単純な話ですが、何かがキャラクターコンテンツとして消費されているからといって、それがキャラクターコンテンツとして生産されているのかどうか、てのは、これは実のところまったく確定的には言えない話です。
 コンテンツとして消費・生産とかいうからなんか工業的なにおいがしてしまうのであって、消費の代わりに読み、生産の代わりに創作とでもいえば、単純な一対一対応を考えてはいけない、なんか神秘的なものであることになる。
 工業的に生産されるコンテンツと神秘的に創作される作品がある、というような二分法を導入すればコンテンツサイドのものは単純な一対一対応に押し込めていいことになるけど、コンテンツが工業的に生産されている、という観念が実情を必ずしも正確には反映していないのではないか、と思うことがあって。
 まあオフラインオンライン問わず色々見聞した上で言ってるわけですが、ネット上で参照できるアレとしては例えばこんなライトノベル(?)編集者の発言。

コバルトといっても、いちおー、ぼくらがやっているのは文学なんだからね

やっぱ文学には文学のホコリがないと

http://lanopa.sakura.ne.jp/kumi/09.html
 昔の話だから、と思わなくもないが、しかしそうは言っても小説書いてんだぜ、という部分は今も恐らく変わらない。
 作家と読者の認識の格差が滑稽なほどに露出してしまった事例。

田代 これまでのシリーズがミステリよりだったんで、もう少しライトノベルよりの作品を書いてみようと思って書いたシリーズです。  ひとつ妖怪バトルでもさせるかと考えたんですが、ただ、さすがに、ミステリー文庫から出る作品ですので、何かひとつ変わったところがほしい。そこで、殴る蹴るではなく、ロジックで妖怪と戦ってみよう、という発想が出てきました。

宇佐見 妖怪、お好きなんですか?

田代 嫌いではないですよ?

宇佐見 1人あげるなら?

田代 1人というか、1匹ですが、土蜘蛛、とか……。

宇佐見 土蜘蛛……ですか……。蜘蛛、ですよねぇ?

http://www.p-tina.net/novel_illustration/192
 当然、土蜘蛛といったら、記紀に登場する日本列島の先住民であるわけですよ。それが、平安時代には源頼光の伝説に見られるようなただの蜘蛛のお化けに変質していく。
 そういう血腥い民族の記憶はキャラクターコンテンツの生産ではない小説の創作においてはひとつ大きな仕掛けになっていい。作家は歴史にどのような視座を持ちうるのか、という問題意識は、しかしこの場では無残にも共有されることはなく、ただ、インタビュアーの興味はキャラクターコンテンツの生産者に対するそれにとどまり続ける。
 このインタビュアーの宇佐見尚也とは凡そ正反対の立場からライトノベルにアプローチしている福嶋亮大も、しかし同様な興味の持ち方をしかしてはいない。

ライトノベルはまだぜんぜんぬるいのであって(たかだかキャラを抽出する計算しかできない)

ライトノベルなんて、もう底の底まで規則が共有されていて、ただのお座敷芸になっている。

http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/90dcd2c85e7a513d6c5fc02377c00663
 もし本当にライトノベルがお座敷芸化しているのならば、何故KSSの作家なんぞに拘泥する編集部が実在するか、とまずは問うべきで。その「規則」「芸」を習得した別の誰かを連れてきて続きを書かせればいいだけのはず。現場レベルでは、それでは何かまずい、という判断が働いているとしか考えようがないわけです。
 底の底まで規則が共有されているのは、恐らくはキャラクターを抽出する読みの側。『カラマーゾフの兄弟』あたり、誰もが認める立派な文学、まさに小説のなかの小説といったこの作品でも萌えたりやおったりは十二分に可能でしょう。アリョーシャたんハアハア。
 読み手の事情を書き手の事情とをうまいこと取り違えられるように創作技法としてのキャラ立てと読み方としてのキャラ萌えを併置し、その間をコミケという素人が作り手に回る場の性質で繋いだアクロバットの悪影響は大変に甚大であることです。

 コンテンツの生産も「いちおー」ではあれ創作であり、創作ならば作家のプライベートな部分からなにかを引っ張り出してくる作業であって、そしてその結果として作品が現出せざるを得ない。作品は多様な読みに対して自ずから開かれざるを得ない。
 にもかかわらず、ことオタク文化周辺ではキャラ萌え以外の読みがあまりに未整備。
 アニメ雑誌ライトノベル雑誌とエロゲ雑誌が全て共有できる、キャラクター中心でない誌面作り、がどーにか発明されんもんか。