id:crow_henmiにお前らは陰でグチグチ言うだけでヒキョウだ言いたいことがあるんなら堂々エントリ立てろと煽られた気がしたので書いておくことにします。
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080925/1222318237
 イデオロギーは現実認知をゆがめるという見本。

  1. オタク中心に売れた作品はオタクの願望充足のために作られた願望充足的ソフトポルノだ。
  2. 現実逃避は否定されてはならない。

 というイデオロギーがあって、そのために目前にある作品がどうであるかについての認知が大いに歪むという。
 いや、ひょっとして作品は目前にはないのかも知れない。2ちゃんやふたばで拾ったコラしか見てないのかも知れない。ないと思うけど。
 具体的に。

「オタク」的な心性を持つ人が「かわいい人形」を愛でる、しかも「マスター」と呼ぶ。こういう萌え萌えな設定や、無条件の愛を注ぐ姉という願望充足的な設定

 前半は、「オタク」的な心性を持つ人というのがみっちゃんのことを指すのならば、みっちゃんと金糸雀の関係の描写として概ね間違ってはいない。
 だがいきなりみっちゃんの話をするのもおかしいので、ジュンと真紅の関係を言うのだろう。
 百歩譲って、ジュンは「オタク」的な心性を持っていると認めてもいい。が、ジュンが人形を愛でているかというとそれは果たして疑問だ。
 真紅はジュンを下僕扱いし、ジュンはそれに反発する。反発しながら二人は惹かれあっていく、というか、気高く立派な真紅に見守られながらジュンが少しずつ前向きになっていくのが『ローゼンメイデン』の大筋であって、人形に慕われ人形を愛でるというような関係性は、表面化しているとは言いがたい。
 姉が、善導してくれる指導者が欲しい、という願望を充足してくれているとは言えるだろう。そう考えれば腫れ物に触るように扱う(あのおっかなびっくりなのりの態度を「無条件の愛」と呼べるのはよほど鈍感か、でなければイデオロギーで目が曇っているかのどちらかだろう)のりは、不全の姉性の象徴として置かれているとこそ見るべきだ。
 ただ。これってあえて願望充足っていわなくっちゃいかん話なんですかね。
 レッサーパンダの写真集が売れたのは、レッサーパンダの写真が見たい願望を充足させたからだ。
 なんもいってなくないっすか、これ。「レッサーパンダの写真が載っている」と「善導する姉性が描かれている」じゃまあ、ぱっと見でのわかりやすさは随分違う。作品がどのようなものであるのかの祖述は既に批評でありうるけれど、その祖述に「というものを見たい願望を充足させている」と付け加えることに特別な意味があるとは俺には感じられません。
 まあ願望充足的、というのはそういうことじゃなくて、なんというか、性的欲求を満足させてくれる、みたいな意味合いの術語なんだろうと思うんだけど、そういう願望充足的な作品、ソフトポルノではないことは前述したとおりです。ソフトポルノでないことはないだろうけれど、それは無条件の愛を姉が注いでくれたり人形を愛でたりできるからではない。
 「オタク中心に売れた作品はオタクの願望充足のために作られた願望充足的ソフトポルノだ」というイデオロギーによって現実認知が歪んだため、無条件の愛を注いでくれる姉やおとなしく愛でられる人形が見えてしまっただけで、虚心坦懐に読めばそんなものは存在しません。虚心坦懐にってのがお前のイデオロギーだとかそういう実りのない反論は、まあするのは自由だけど。俺は実里のいない世界には行きたくないなあ。
 んで。

両者とも、「空想」のロマン主義的な世界を肯定するところは同じで、それに対するメタ意識が炸裂している

 両者。はい『ローゼンメイデン』と『ベルセルク』ですね。『ベルセルク』のあらすじはどんなんでしたっけ。

アル中の父親に殴られ、無力な母親を見、貧しい村から逃げ出せない少女が、空想のフェアリーの世界に行くが、そこは悪夢で、焼け落ちる。

 「そこは悪夢で」というのは一般には否定と言うのではないでしょうか。直前に自分が書いたことも見えなくさせる。イデオロギーとはかくも恐ろしいものであることです。
 言及するとは肯定的な主張をすること、否定するとはその主張に対して言及することであって、つまりメタ的な言及ではあるのだが、でも、フェアリーの世界は悪夢でしたって話を、フェアリーの世界を肯定するが、しかるのちメタ意識を炸裂させたって言うのはあまりに一般的でない語法。
 じゃあ『北斗の拳』は「汚物は消毒だ」を肯定したが、しかるのちメタ意識を炸裂させたのだろうか。「汚物は消毒だ」を否定したと言ってしまったほうが話は単純だ。
 もっと言おう。「『北斗の拳』の主張は「汚物は消毒だ」である」というのが「「汚物は消毒だ」を肯定している」ということの一般的な含意だと思うんだけど、「汚物は消毒だ」はイカンというのが『北斗の拳』から普通に読み取れる主張なのではないか。だって「汚物は消毒だ」と主張して人々を殺した罪でその兵士は処刑されてるんだから。これは「汚物は消毒だ」を否定していると普通は言う。
 同様に、『ベルセルク』は、「フェアリーの世界」を「悪夢」として描き「焼け落ち」させたので、「フェアリーの世界」=現実逃避を否定していると言える。
 「現実逃避は否定されてはならない。」から、「否定している」という文言を避けようとしてわけのわからないことになっているように見える。
 手元に今『ベルセルク』がないので、確かなことは言えないのだが。ひょっとしたら現実逃避を肯定するような描き方(どうやって? 焼け落ちないフェアリーの世界が少女の前に現れる?)がされているのかもしれない。ただ、藤田氏の文章の内部に既に矛盾があることは確かだ。藤田氏のまとめた『ベルセルクロストチャイルド編のあらすじは、現実逃避を否定する物語のそれだ。
 なお、藤田氏のあらすじのまとめ方には大いに疑問の余地はある。
 例えば直前の

バトルロワイヤルを完全に放棄して作品を投げたところだ。完全に競争を降りている。降りた末に、『不思議の国のアリス』を模したウサギが、扉の向こうの「別の世界」へ誘って終わる

汚れて争いに満ちて悲惨な現実世界を放棄し、別のユートピアを求めるというようなある種ロマン主義的な心性が、ネットユーザーの欲望とうまく共振したのではないか

 という記述に関しては該当する箇所が何度見返しても見つからなかった。
 バトルロワイヤルをやめさせる戦いのために誇り高く戦場へ向かう真紅&翠星石とその闘争の只中へジュンを誘うラプラスの魔なら見つかった。
 ローザ・ミスティカを奪うことでアリスになることにこだわってるのは銀ちゃん一人で、翠も蒼もヒナもあんまりこだわってないし、真紅はアリスゲームを終わらせようとしている(どうやら平和的な解決策があるらしいと彼女は幾度も仄めかす。その方法は詳らかにされていないが同時に真紅は「闘うことって生きるってことでしょう?」と主張している。だから、その方法は逃げるとか放棄するとか言うベクトルではないはずだ。)。金糸雀雪華綺晶はそれぞれなりによくわかんないという温度差は『ローゼンメイデン』読解の基本のキだと思ってたけど違うのかな。

 まあそれだけじゃなく、この人日本語能力がかなり不自由なのでないかと思われる節があるのだ。

単純なレベルとして人形可愛いとかロリータかわいいとかそういうレベルもあるが、そしてそれはフィギュア萌えする人間の心理を反映している

 読者が人形可愛いと思う心理はフィギュア萌えする人間の心理そのものなんじゃないっすかね。反映とかんなんとかでなく。
 のりとかみっちゃんとかがメイデンを可愛がるレベルはフィギュア萌えする人間の心理が反映させられたものと読める、ならまあいいけど。

「オタク」的な心性を持つ人が「かわいい人形」を愛でる、しかも「マスター」と呼ぶ。

 主語は?
 「「オタク」的な心性を持つ人」が主語なら「「マスター」と呼ぶ」じゃなく、「呼ばれる」でしょうに。主客の区別がはっきりしてなすぎるぜ。
 受け手と送り手、作品の内部と外部とかの境界線を撹乱することでなにか面白いことを言うというのが藤田氏の属している流派の作法であることは知ってるけど、にしてもきっちり境界線が引けないことと違いがないことは違う。そこの整理がまるでできていないように見える。

 ひょっとしたらこれって少女漫画が読めない男問題の変奏なのかもしれない。
 少女漫画としては結構標準的な画面構成を「ネット的」などと藤田氏は称しているのだから。