クリント・イーストウッド監督『インビクタス/負けざる者たち』

 TOHOシネマズららぽーと横浜にて。
 イーストウッド映画のいいところは、わかりやすいところだと思っている。
 例えば、冒頭、白人がラグビーをしているグラウンドの道路ひとつ挟んだ向かいのグラウンドでは黒人がサッカーをしているという配置。例えば、信頼関係が醸成される以前から常に同じフレームの中に押し込まれている黒人と白人の警護官たち。黒人と白人の対立構造と、その対立が超克されるだろうことが絵によって明確に、いっそ露骨に示されている。
 そのわかりやすさによって俗っぽさ、わざとらしさ、クサさに堕さないのは、レイアウトを決め込みすぎない自然体な構図もあるだろうが、俳優の顔の長回しが大きいように思った。長回された沈黙する孤独な人物の顔は、そうであるというだけで、一意な解釈を峻拒する何かなのだ。である以上、イーストウッド映画には一定数のいい顔の俳優が要求されるということになるのだが、毎度毎度、それを集めてくるのが本当に上手い。モーガン・フリーマンマット・デイモンという大スターだけでなく、端役のひとりひとりに至るまでが何かがある顔をしている。
 そして毎度毎度、メインのモチーフになるものがどうすると絵になるのかをよく考えている。
 それは『グラン・トリノ』ならマッスルカーだし、今回ならばラグビー
 イーストウッドが撮るラグビーは、狭いところに人がたくさんいて、ガツンガツンぶつかりあう、同じフレームの中でパスが行き来するスポーツだ。だから、スクラムは寄せ合わされた頭と重なり合う足によって示される。カメラはキックの場面以外では引かないし、あまり激しくは動かない。今ここを守り、もう一歩でも進むためにがつんがつんぶつかりあって生傷だらけになる競技、と考えるとまさに作中の南アフリカ社会の状況との二重写しに見えてくる。
 絵にするための選択が、象徴的なテーマ表現と密接に絡み合ってくるあたりの緊密な構成力とかもう、何を言えばいいのか。決勝の相手がオールブラックス(カマテを通しでやってくれる)なのは単に史実通りなのだが、マオリの伝統文化を重んじるための努力を欠かさない彼らが最後の試練としてスプリングボクスの前に立ちふさがるというのも出来すぎだ。
 ところで、南アフリカ社会・南アフリカ国民の統合という側面よりも、スポーツ観戦の持つ魔力、様々な状況に置かれた様々な人々がチームに入れあげて応援するという体験の中で一体感と高揚感を覚え、日々の痛みを忘却する、という側面のほうが胸に刺さった。
 美しい建前ばかり口にし、それで周囲からのリスペクトはえられるが、家族をはじめとするプライヴェートな部分では孤独にさいなまれている老人がその浮世の憂さをスタジアムの熱狂の中で少しだけ晴らす、と思えば、なんというか、偉大なるネルソン・マンデラがそんなに遠くなく思える。