http://home.att.ne.jp/iota/aloysius/tamanoir/idata/iken25.htm

原作と映画はまるで無関係である。原作を蹂躙して成立する傑作もあり得るし、原作に飽くなく忠実で糞という映画は幾らでもある。どうしようもない原作の素晴らしい映画化もよくある話で、これまた一種の蹂躙だが、だから駄目、ということはない(ボンダルチュクの「戦争と平和」はその一例である。百年経ったらあんな原作は誰も読まないだろうが、映画の方は相変わらず、一部愛好家には宝物である筈だ)。ただし、映画と原作の間には、偶々両方を知っている人間だけに生じる、微妙な微妙な関り合いがある。あまりにも見事な原作を蹂躙するなら、よほどの映画を作る必要があるのは確かだ。

大原則はこうだ――よい映画を作るためには、原作は殺されなければならない。原作に引きずられた映画ほどどうしようもないものはない。どうしようもない原作に引きずられたどうしようもない映画ともなれば、もはや救いはない。

 

 現実にその通りであるような動きをただただトレースする事をは、優れたアニメートとは一般に呼ばない。
 そこにアニメーターの解釈が、即ちデフォルメがあって、それによってダイナミックであったり美しかったりするような作画をよいアニメートと呼ぶのではなかったか。
 

http://d.hatena.ne.jp/kazenotori/20060624/1151078113
 どれだったかは忘れたけれど、《宇宙一の無責任男》シリーズのどれかかその続編のどれかのあとがきで、吉岡平がアニメスタッフに対して当時はものすごくムカついていた、みたいな事を書いていましたよ。
 『タイラー』のアニメは真下耕一の栄光に彩られた*1フィルモグラフィの中でも評価の高い作品の一つであって、そういう事もあって俺は原作者なんて怒らせておけばいいもんなんだろうな、アニメ化とかの時には、と思っていたものでした。
 内容的なものでなくて作業の進め方みたいな部分だったようだけれど。確か。
 

*1:信者の戯言だ読み流せ。

俺は川澄綾子ファンに見えているのか

 声優ファンは「声優の歌」を聞いているか「声優」の歌を聞いているかのどちらかである。
 後者ならばその歌曲の音楽性なんてものは毛ほどの意味も端から持ちはしないし、前者である場合もやはりアーティスト的な意味での歌唱力やら音楽性やらを求めてしまう事はなく、ある種のそれらしさだけを追い求める事になる。
 声優のCDを買うのはまず声優ファンだけであり、である以上、音楽性にこだわった、豪華な面子の参加した声優CDや歌唱力を前面に出したがる声優の存在にいかほどの意味があるのか、商業的に、と書き出して、そう言えば声優の事しか考えてないくせにそれを認めるのを拒む*1チキンな人は音楽性や歌唱力を言い訳にしつつ声優のCDを買うものだったと思い出した。ので、この話おわり。
 http://keshiki.sakura.ne.jp/blog/archives/eid821.htmlやらhttp://d.hatena.ne.jp/ruitakato/20060622やらを読んで考えた事でした。
 

*1:あるいは声優ファンと名乗りつ声優の事以外も結構考えている