正しい少年漫画は、美だけを問題にする。
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えー、ネガティブ。
キャサリンとヘルガに消滅の危機を知らされつつも、世界戦へと突き進む竜児と剣崎には、最早なんの思想的対立もありません。いや、むしろ、二人は世界で最も近しい二人だからこそ、互いに相争うことを求め合った。
小賢しい思想的対立は、少年漫画のクライマックスにおいては放棄される運命にあります。描き続けられる戦いの中、相争う二つの魂は浄化されて、いつしか一つになっていく。アストロ球団とビクトリー球団の文字通りの死闘が決着したとき、マウンドにいたのはひとりのアストロ超人で、打席に立っていたのもひとりのアストロ超人であった、というのは、実に実に象徴的な出来事であったと言えるでしょう。あるいは、愛を知る北斗の兄弟が夢想転生をたたき込み合うあの感動的なラオウ編のクライマックス。ヨミとバビル2世の最後の対話の穏やかさ。
正しい少年漫画は、美だけを問題にする。そのに
戦いとは、理解しあう過程の謂いでありますが、理解しあう、認識の水位差が消失する、ということは、物語素としてのキャラクターの死を意味します。
畢竟、少年漫画とは死に様にまつわるジャンルであるのだろうと思います。
であるのならば、セイバー、アーチャー、言峰の死に様を巡るお話である『Fat/stay night』は少年漫画的であるのだろうと思います。
正しい少年漫画は、美だけを問題にする。そのよん
つまり、死に様のプロトコルを巡るのが少年漫画であり、その主人公とはまずもって殺すもの、でなければ死ぬもの、として立ち現れるはずだが、このような認識において例の不殺、って奴が問題化される理路が生じる。
殺せないのならば、馴致も出来ないはずで。