以下、個人的なチラシの裏
http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20051026#1130310065
 言うに事欠いて売れてるから正しい、ねえ。次はアンテナ登録数? PV? 流石に下品なのではないか。相手が下衆であったとしてもこちらまで下衆になる必要はない、というか、そうであればこそ誇り高くあらねばならんのと違うか。
 
 ともよちゃんの問題意識はわかる。というかエロゲ論壇界隈の非常にオーソドックスな感覚であって、今更言われんでも、ではある。言ってしまおう。古臭い。なんか違うことゆえ。
http://web.archive.org/web/20040611142000/asciipad.at.infoseek.co.jp/0308.html#06

ヒロインによって祐一の失われた「過去」が決定するってあたりはKanonの常識のはずなんですけど。

http://www.geocities.com/lovelyaichan2000/11.html#16

「ある女の子を選ぶとその攻略対象以外の女の子は決して救われない。『Kanon』とはこの世界の現実を反映した残酷なゲームなのだ」とか言って涙するお茶目さんはそれなりに数いたように思うけど、ンなこと普通は考えないよなあ。ギャルゲー2本もやれば、そういうものだって理解できると思うんだけど。栞シナリオ内にはあゆも名雪も舞も真琴も存在すらしないのだ。

http://web.archive.org/web/20011123160251/http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/8179/diary6.html#000216a

第二に、主人公が女の子との思い出を最初はすっかり忘れていて、デートを重ねるごとにそれを思い出してゆくという展開。これも子供時代の記憶を呼び出して「せつなさ」を演出することが主眼なのでは決してなくて、ギャルゲーの主人公(プレイヤーキャラクター)が初めは誰にも惚れておらず、プレイヤーの選択を反映して徐々に内面を形成してゆかねばならないというシステム上の制約を受けて導入された物語だと言うべきだろう(なお、そのうち論じようと思う『Kanon』はこの点に関するもっとすごい徹底化の事例だ)。

 皆様ご存知のこの辺。
 整合的である事はどれだけ言い立てられたって価値がある事にはならないというのはまあ常識であって、じゃあ設定上の整合性ってのはつまるところエロゲ/ギャルゲの本質においてどんな意味があるのか、と言うあたりに個人的に興味がある。
 その辺の話になるのかなと興味深く見守っていたところ
http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20051026#1130297150

しかしそれは僕らの時間軸に取っては「A>B>C>D>E」と続く、同じキャラクターと状況設定とルールを保有するひとつの系の中の、ありうる物語バリエーションを順列的に消化しているのだから、「CROSS†CHANNEL」における一方通行マルチシナリオに比べ、若干柔構造であるものの、本質的な部分では変わりがない。

 というのを見て、ううむ、それは全然違うっていうか、それを同じと見做す立場には俺は立てないなあ、と思った。それは立ってもいいし実作するんならそっちの方が楽だったりもするんだけど、なんか、何やってるのかわかんなくなるんだよね。
 というかまあ、そう言う考え方なら
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20050922

確かに、作り手側が「これこそ伝えたかった真のテーマの書かれたトゥルーエンド」というメッセージを発してくることはままありますが、幸いにも私たちプレイヤー側は、別の終わり方を選択することが出来ます。バッドエンドやハッピーエンド、途中でプレイ放棄、インストールしないで積みっぱなし、体験版で終わりにして最初から買わない、全く視野に入らない、などです。マルチシナリオ、マルチエンドの方式が浸透していくことで、そうした「作り手の意図した終焉」以外の終わり方をグラデーションのようにして視野に入れることが出来るようになるでしょう。

 というともよちゃんの一番重要な指摘をスルーできるわけだ。
 そらかみ合わんわ。
 
 以下復習。
 ゲームを進めていく事によってしか、最初にキャラクターたちが置かれていた状況設定を知る事はできません。山田太郎は明訓学園に通う二年生、幼馴染の岩子、クラスメイトの殿美などと面白おかしい学園生活を送っていましたが、そこに転校生の三絵がやってきて――というような概要だけが状況設定の全てではない。太郎と岩子が激流に飲まれかけた過去があっての学園生活と、それがなくての学園生活は異なった状況設定である。そしてそのような過去の有無はゲームを進める事によって初めて知られる。
 通常のマルチシナリオゲーで肝要なのは、ルートごとに初期の状況設定は違う事になるけれど、その状況設定同士の間に優劣がないという事です。全てのヒロインのエンディングを見る・シナリオをこなす事が必要ではないという事。
 だから、マルチシナリオで、三人のうち一人をクリアすればそれでいいけれど、三人全部クリアするとオマケが見られるよ、というゲームである『AIR』を、佳乃だけクリアしてアンスコする事は正しい。女の子を一人も不幸にしなかったという意味でちょー正しい。ラブを感じる。「AIR」に入れると言う事は観鈴/美凪/佳乃への純愛を貫けなかった、うあきものの証拠ですので「過酷な日々」をぶちこまれたって仕方がない。
 
 あー、そっか、オマケの肥大化って考えりゃいいのか。
 シナリオ間の設定的整合性ってのはまあ、コンプすると隠し絵が見えますよというオマケか。不純オブザイヤーか。
 声・CG・整合的な設定というパッケージ内のおまけの比重がどんどんと上がっていく、と。
 『ONE』の研ぎ澄まされたコンセプト性に無論我々は打ち震えるんだけど、それでもいたる絵の愛らしさに卒倒しそうになる、というのもこれは事実であって、排除は当然まあ不可能だよな。
 悪いとはいわねえが。商品性の基盤に作品性の基盤が浸食されるというアレか。とすると『C†C』は徹底して商品であった、と言う事かな。だから売れた、と。ふうむ。夢のない話だなあ。ある夢見がちな方面に徹底して不評なのが頷ける。あんまりにも身内の評判最悪で怖くて手出してないんですが。