最近の例として、『時をかける少女NOTEBOOK』の細田守インタビューから引用。

なにがいいって、ものすごく幸せな声なんですよね。オーディション原稿って、泣いたり怒ったり笑ったりいろんなシチュエーションを用意しておくんですけど、どんなセリフを言わせても基本的にワクワクしているように聴こえるんです。大げさじゃなく、彼女はきっと素晴らしい世界を見ているんじゃないかって思わせるような声。「世界の肯定感」がすごいんですよ。どんな悪いことでも彼女が見ると素晴らしいものに変わってるんじゃないかっていう、そのくらい全然違う声に聴こえたんです、僕には。それはもう、お芝居がどうとか声がいいとかの問題じゃなくて、いや、それらも充分いいんだけど、そうじゃなくて彼女の世界観と真琴の世界観がバッチリ合った、ということなんです。

 インタビュアーは宮崎駿*1が愛した松田洋治を高瀬で起用した事について突っ込むべきだと思ったし*2、声優使わん言いながら立木文彦山本圭子はどうなんだよ、とも聞くべきだったろうとも思ったけど、無駄に熱く語ってしまっているとてもよい声オタっぷりだと思いました。

*1:巷間言われるように、客寄せのために有名芸能人を声優として起用しているのでは宮崎駿はないと思う。本名陽子入野自由を発掘できた事からも分かるとおり、いい声を求めているつもりは十分にあるはずなのである。ただ、何分センスを恐らくは欠いているし、せっかく発掘した役者をじっくりと育てる姿勢も劇場版中心の作品作りではとれようはずもない。誰もが富野由由季や大地丙太郎のようであれるはずはないのだが、それにつけても宮崎には悪条件が重なりすぎている。千葉紗子の時代を5年以上も先取りした先見性は素直に評価されてしかるべきだ。言い換えるなら、宮崎が自爆気味に開けた風穴を、富野や大地は後から、後発組の見通しのよさで楽々と安全に通過しているだけなのだから。実際、今『トトロ』を見れば、日高のり子のアニメアニメした芝居が精緻な美術世界と齟齬を起こしている事が誰にでも見て取れるだろう。

*2:細田が『ハウル』を降ろされた、という事に関するスキャンダル的な興味がないとは言わないが、キャスティングが一作限りのマッチングだけではなく、キャストのキャリア・文脈をも含みこんで行われるべきであること、少なくとも、そのような文脈を読み込む権利が視聴者にはあることは確かだろう。アスベルであり、アシタカであり、"森の女"と対峙する"里の男"を演じ続けてきた役者をヒロインの身代わりとして生贄に捧げられる役どころで起用した意味とは何か、とは十分意味のある問いだろう。