http://d.hatena.ne.jp/hanhans/20070119/p1
 るりあさんとこの元ネタは
http://d.hatena.ne.jp/cherry-3d/20051015/p1

 が、僕が面白いと思うのは、まったく無関係に見える人間たちが、たまたま何かの偶然でであってしまうけど、それでもやっぱり最後までバラバラで、結局世界の全体像もわからないし、だからそれぞれ勝手に解釈して勝手に納得するしかない、という話なのだ

 に対するコメントだったかと。
 で。

吉永さん家のガーゴイル」の「邪悪」って、つまるところ「収まる所に収まって欲しい」という辺りなんでしょうか、と前から聞きたかったのを思い出す。

 多様な価値観を認めない、非常にせまっ苦しくて抑圧的な作品世界であるなあ、とまあ、そんな程度の話です。
 てか、こんなんただの規範批評で俺の掲げる規範をそれなりに信用する気になれない人は無視していい話だと思うです。
 以下、散文的な解説。
 『吉永さん家のガーゴイル』がどうにも気持ち悪い点てのは、例えば

性格の方も臆病だが、やるときにはやる、立派な高校生男子だ。

 ていう、まあ二巻の前*1にも引用したとこなんですが、これ、神視点の記述なわけですよね。
 神視点の記述で、和己をやるときはやることで肯定するということは、作品世界の神はやるときにやらない和己を肯定しないということに等しいわけです。
 これが「性格のほうも臆病だが、やるときにはやるところが頼もしい、と双葉は思っている。」だったらそれは双葉の勝手、人間同士色々思うこともあるわなってだけなんですが、神様が良い悪いを決めてしまう、というのは、これはいただけない。
 ここに顕著に現れているような神意主義は『ガーゴイル』全体を貫いていて、各巻のストーリーは双葉が神の決めたルールに背くが改悛し信仰の階梯を上がるか、神の摂理に対する挑戦者が義人和己によって打ち滅ぼされるかであるとまとめることができてしまいます。
 そういう乱暴なお話であることに、どうにも作家が気付いていない感じがして、そこがすごく読んでて痒いんですね、どうにも。
 例えば三巻では声を聞きつつ殺すそのうちなれる、ていう選択肢は最初から排除されてますよね。
 その”最初から”てのが邪悪だ、と思うのです。