sola

 ヨーダますみんぽいという印象になるのは依人がビジュアル的に鳴海弟過ぎるからだと思う。
 先週の久弥直樹の回を見直してみたが、あんまりにも久弥である一方でそんなに図抜けた印象もなかった。脚本陣がよく久弥を拾ってるなあ、と言うべきか。そうは言っても、作為がそれなりに美しく立ち上がる不眠の理由を語らうシークエンスとか、非常にぽい。そしてそれは他の脚本家はこの作品ではあんまり仕掛けてきていないタイプの技でもあり、そういう剥きだしの作為が、例えば「母」って晴子のことを呼び出しちゃったあとの――いよいよ書き手の作為以外のすべてが後退してしまった――麻枝准シナリオのように重苦しくはない、というのはきっと作家性なのだろうな。つまるところ、無闇に触らない、腰の入ったチョップを打ち込める距離でドラマを展開する、言ってしまえば自然さ、と、いかにもお話っぽい偶然の一致、つまり不自然さ、をブリッジできる感性。ある種の拙劣さ、と言ってもいいだろうけど。例えば技巧的な脚本家の典型と言うべき花田十輝は無論このへんはきっちり峻別します。再会は偶然に拠らしめても、発話にまではそれを及ぼさせない。

 えー、麻枝作品のなんか充溢してる感じ、が時には鬱陶しくてなりません。劇場版『AIR』の鬱陶しさは原作をよく拾ってたんだなあ、とも思わなくはない。いや、『AIR』の海はキタノの海ではない、と思うんだ。多分、そんなに虚ろじゃない。なんかもっと、ギトギトしてる。そうでなければ、直截に描かれていい。

 今週の話も傘の使い方がとてもテクニカルで、小道具が綺麗に話に絡む、は久弥っぽさの多分最も世間的に受けいれられやすい部分で、まやっぱよく拾ってるなあ、と。

 ところで『シムーン』以来の本格階段アニメであるので、階段マニアの人は見ると良い、と思います。