僕は冬彦さんじゃないんですよ!

 1990年代のフィクションにおける精神分析・心理学ガジェットの大流行の発端は、1991年6月日本公開の映画『羊たちの沈黙』であり、国内の作品で言えば1992年のドラマ『ずっとあなたが好きだった』で取り沙汰された、マザコンの語であろう。ダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』の邦訳も1992年。ロバート・レスラーの著書が日本に紹介され、プロファイリングの手法が広く知られるようになるのは1994年。このようなブームの総決算とも言うべき「マーダー・ケースブック」の刊行は1995年10月からで、『羊たちの沈黙』の構図に回帰した『沙粧妙子 - 最後の事件 -』も1995年。
 「トラウマ」「コンプレックス」「サイコパス」「多重人格」などのおどろどおろしい術語は、『新世紀エヴァンゲリオン』以前に、市民生活を脅かすモンスターの存在原理として既に広く受け入れられていた。今読めば「ああ、綾波なのね」と言ってしまいそうになる『MAYA 真夜中の少女』ですら、1994年に連載が始まっているのだ。
 『新世紀エヴァンゲリオン』の時点で精神分析を説明原理として持ち出す手法は陳腐化していた、とも言える。では何故『エヴァ』が受けたのか。ドラマで5年前に流行ったものをもってくればアニメでは最先端だ、などとはあえて言うまい。シニシズムとリアリズムを取り違えていいのは小学生までだ。
 ここで忘れられてはならないのは『エヴァ』の作中ではトラウマとかACとか、そういった言葉は用いられていない点だ。
 碇シンジが当時喧伝されたほど精神を病んだ人物であるようには、今の目からは見えない。放っておくと怪我をしている女の子に無理をさせようとする父親を捨て置かない彼は、むしろ立派な少年であり、エヴァンゲリオンに乗って戦うことを恐れるのは、あれだけ怖い目にあわされたのだから至極理にかなったことにしか見えない。
 この普通にストレスフルな環境で普通に嫌な思いをしている少年の言動に、精神医学や心理学の言葉が作品の外部で貼り付けられ、90年代精神分析ブームのイコンに『エヴァンゲリオン』は仕立て上げられた。乱暴な話である。乱暴な話ではあるが、この乱暴さはモンスターの説明原理であったはずの精神分析・精神医学・心理学の術語を主人公、善良な市民の側に向けるコペルニクス的転回をその中に宿していた。
 『エヴァ』のあとの更なる後出しジャンケンである『多重人格探偵サイコ』が探偵を多重人格者に設定したのは、時流を見るに敏であった、とは言えるだろう。
 しかして、精神分析ブームは過ぎつつあったのではあり、『新世紀エヴァンゲリオン』と『多重人格探偵サイコ』、つまり「少年A」史上にのみ90年代前半の空気が保存される状態がしばらくは続いた。そして、世紀の変わり目の直前からメンヘルブームが起こり、桑島法子が偽『エヴァ』アニメに出まくる時代がくるのだが、『エヴァ』直後、1996-97年あたりだと、露骨に『エヴァ』を意識し模倣した作品というのは『VS騎士ラムネ&40炎』『機動戦艦ナデシコ』『勇者王ガオガイガー』くらいしか見当たらない。『ナデシコ』『ガイガイガー』はメカニック演出の技法上の影響にとどまるが、もっとも近い時期にもっとも深刻な影響を被った『VS騎士ラムネ&40炎』は、作中の出来事の原理的説明を投げ出し、作品世界の理不尽とそれに起因する殊更な悲劇を強調する構造によって『エヴァンゲリオン』であろうとした。この方向性は所謂セカイ系へと洗練されていくのだが、ここで重要なのは、精神分析・心理学のような説明原理を『VS騎士ラムネ&40炎』の作り手は等閑視したということだ。
 「わかりません」の代わりに「トラウマがあったんです」、そういう構造を『VSラムネ』の作家は見出している。その作家とはあかほりさとるなのではないかと思うが、確信は持てない。どう転んでもロクなことにならない背景としての人類補完計画/キャラクター心理解析と、ラムネスの剣。随分違うように見えるが、主人公に不可能性をつきつける装置としては選ぶところがない。
 より洗練された形で後に新海誠が成功させる方向性で百戦錬磨のあかほりさとる(多分)が大成功を収められなかったのは、前半を明るく楽しく仕立てることにこだわったからだろう。
 トラウマとは虚構の怪物を支える嘘物理学であり、それから適当な悲劇を叩き込むためのガジェットでしかなかった。それはちょうど、ラムネスの剣、負のデウスエクスマキナの等価物でしかない。それは物語を終わらせる、捻じ曲げる装置ではありうるが、始める、推し進める装置にはならない/されなかった。
 それが90年代の真実だ。トラウマを解消してやるとやらせてくれる物語*1、が覇権を取るのは、90年代の最後の最後、美少女ゲームの狭い世界でだけだったのではないか*2
 それにしても、逆行催眠をかけて「ここであなたはメイドが犬にコップで水を与えているのを見てしまったのですね!」なんてやってるゲームもなかろうが。

*1:物語を駆動するトラウマは、あくまで美少女の側にある、とすれば、これはサイコモンスターの存在を支える嘘物理学と結局は同じことだ。物語の起動装置は、「来襲」に対する「迎撃」、駆動装置は「創意工夫」だ。

*2:あー、いた、トラウマ駆動型の、過去の出来事への補償だけを求めてみんな行動を開始する話書いてる人。川上稔。あれは恐らくトラウマがないと人物の生活史が存在できない=人物設定が組めないと考えているからなのだろうけれど、それは違う。生活史は言動の細部に宿る。