http://www.puni.net/~anyo/diary/200703.html#20070302
 あ、こちらこそ分かりにくくてもうしわけないです。ちょっと出かける前で急いでいたもので。
 「「脚本の出来の悪さから駄作」というのを、「ある意味命懸け」の視聴態度をとれば誰もがたどり着ける普遍的な結論だと前提しているところ」は「問題」なのでして、そんな事はありえない、と言いたかったのでした。
 反例は、無論あんよさんご自身です。
 「命懸け」で見ることにより得られる評価は個々人によって異なりうる、と俺は考えますし、あんよさんも恐らくはそうお考えかと思いますが、多分、のともえ(仮)さんにおいてはそうではないのだろう、ということです。
 さらに、「完成度の高い作品となり、」と「「普遍的に好かれる」ものとなるであろう」の間には、恐らく因果関係をそんなに強くはのともえ(仮)さんは認めていらっしゃらないんじゃないでしょうか。「好かれる」ことと傑作かどうかは基本的には没交渉という感じで考えているんじゃないかなあ、と。ベストセラーの駄作、はありうるという立場ですね。
 多分、アニメは見るものだから見るのであって、そこに予断も何もない、という立場なのではないでしょうか。とりあえず見られる限りのアニメを見て、思うところあれば書く、というのが習慣化していれば、何故それをするのかは棚上げする事が出来ます。「私」を棚上げすることで、客観的な、誰もが共有可能な見解が導かれうる、という観念が成立します。
 というか、要は、何故人気があるのかの分析と何故面白いのかの分析は異なりうる、というだけの話な気がします、元記事。
 カット1000円の店は安いから人気があるのだろう、と述べることと、カット1000円の店ではブリーチが出来ないから1万円の店よりも劣る、と述べることは、矛盾ではないでしょう。この場合でも、髪の毛を切る必要がある、ということは前提になっていて、意識化されることはあまりない。
 アニメを見るということは、髪を切るという事に比べれば随分と当たり前でない、ということではないかと。

 で、具体的にいうと、例えば
http://d.hatena.ne.jp/notomoe/20070206#p3

前半はなぜ手紙がいいのかがよくわからないこと*1と、ツンデレのはずの芽生が手紙で口では言えない思いを伝えるというような恥かしいことをいとも簡単に行ってしまうことに無理がある。手紙で失敗する可能性が切り捨てられているのもご都合主義。後半は芽生と光香がテーマを決めるために奮闘するシーンを映像と音楽を流すだけで済ませてしまったこと。こここそが見せるところであるべきで、まともな脚本ならここでの奮闘を通して二人が打ち解けていく様を丁寧に描いていくもの。

 というあたり、俺と正反対の評価だと言ってよいかと思います。
 言いにくい事は手紙にする、なんてのは世間的に常識の範疇に入るでしょうし、また、同時に、いつも顔を合わせている相手にわざわざ手紙を出す、というのも人に薦められてみないと中々実際的な選択肢としては浮上しないような行為ではあるでしょう。無論、むつきの介在も忘れられてはいけないところ。
 で、後半の学園祭のテーマを巡る議論は、別に具体的に追いかける必要はあまりないところです。トモダチ/ナカマの二分法は、よくあるレトリックですし、トモダチとは何かナカマとは何かをくだくだしく説明されても興ざめです。
 全体に、のともえ(仮)さんは、全てを説明しない脚本を評価していないように見受けられます。俺は、省略のテクニックはまさに制作者のセンスの現れるところだと思っているので、大胆な省略にはむしろ感心します。

 あんよさんとこ*1
 えーと、多分問題なのは、「脚本の出来の悪さから駄作」というのを、「ある意味命懸け」の視聴態度をとれば誰もがたどり着ける普遍的な結論だと前提しているところなのではないかと。態度と評価の一対一対応を仮定するのならば、駄作⇔命懸け、好き⇔想像力を働かせる、なのであり、であれば、普遍的に好かれる、ということは敢えてといわず考えられるべきなんだろう、と思います。
 ところでリンク先の人のいう脚本の弱さってのは全然わかんないっす。文脈を捉え損ねているだけの気がします。『くじアン』でも『まなび』でも肯定派はみんなが絶賛する野中藍の名前が検索かけてもひっかかんない事からも、多分。