http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20051101#1130830269

「可能性未来」のみならず「可能性過去」をも織り込んだ思考というのは、確かにありだと思うのですが、祐一の包含する可能性過去が、誰かのルートに入った途端消滅していることが明示されている箇所はあったんでしょうか。

「選択されることでそのルートから抹消される過去」という考え方は、それが「WHITE ALBUM」のように明示的に提示されているのではない限り「主人公がルートによらずヒロイン全てと過去を共有する存在である」という説明より煩雑で、故に採用する理由がありません。むしろオッカムの剃刀的に排除したい説明方法です。

 むう、ちと俺が問題のある書き方をしてしまいました。すんません。
 
http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20051031#1130788958

山田太郎は明訓学園に通う二年生、幼馴染の岩子、クラスメイトの殿美などと面白おかしい学園生活を送っていましたが、そこに転校生の三絵がやってきて――というような概要だけが状況設定の全てではない。太郎と岩子が激流に飲まれかけた過去があっての学園生活と、それがなくての学園生活は異なった状況設定である。そしてそのような過去の有無はゲームを進める事によって初めて知られる。

 この知られるは語られるであるべきですね。
 というかこれは『ONE』の浩平と長森のバカ話(http://web.archive.org/web/20021024101855/http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/8179/diary15.htmlに引かれてる奴)を踏まえた表現で、となれば当然http://imaki.hp.infoseek.co.jp/g0010.shtml#26「二種類の矛盾する答があるが、しいていえばどちらもその時々の浩平に応じたリアルである、というほかない。「真」を決定すべき動機を持ち得ない、ということか。」に繋がるわけで、この「太郎と岩子が激流に飲まれかけた」事件はまあ、あったかのように語られる以上の事であると言ってはいけなかった。
 いや、まあ実際に過去が変わっているのでも変わっているかのように語られているだけなのでも見かけ上区別はつかないわけですが。
 見かけ上区別がつかないものは、実はどっちなのか、と問うよりも見かけ上区別がつかないね、と受け取っておく方がよりシンプルな受け取り方ではないでしょうか。
 異なった過去があるかどうかはともかくとして、あったかのように語られる、ということ。
 

シンプルだし、製作においても読解においても、何やってるのかわからなくなる、ってことは、余りないと思いますが。どこに引っかかられたのでしょうか?

 俺の未熟さのゆえかとも思いますが、全体の設定を考えて、それをこっちで少しだしあっちで少しだし、というやり方はゲーム作ってるのか設定ノート作ってるのかわかんなくなりがちです。
 やっぱりまずは一人ずつの女の子のルートあってこそ、ですから、そのシナリオの出来をよくする事を考えたいわけで、それについて言えば、全体の設定を考える作業はあんまり資するところがないわけです。
 コンプリートした時に面白い、というのは無論あるんですが、それならThank You For PlayingCG一枚入れておけば済む話です。もうちょい手間掛けるにしたって、シナリオ間での設定のすり合わせをする時間で20kくらいのおまけシナリオなら書けちゃいますし。
 

シナリオA〜xに至るそれぞれのシナリオで「AとBではシナリオが違うんだから設定も違う」ことを許容するのであれば、A〜xを包含し、それぞれを同じ世界の可能性として位置づけることが不可能となり、A〜xを包含するアトモスフィアがほどけてバラバラになってしまうようにも思えます。

 これは、にも関わらずなぜアトモスフィアはばらけないのか、と問うべきでしょう。
 というか、ばらけないのです。
 ここにこそマルチシナリオゲーを一つの作品たらしめている何かがあるはずで、それはなんだろう、と言うのが俺の知りたいところです。
 共通設定ではやっぱり弱いわけです。そんなん後付でなんとでもなるし、矛盾したってなんてこたぁない、と言うのは一貫した物語であるはずの漫画なんかでもそうですし、設定間の矛盾・不整合が生じても作品の質を決定的には、あるいは全く損ねない例をいくらも我々は知っています。
 後付設定の先後関係をプレイヤーが知りえないマルチシナリオでは、だからこそ全ルートで変わっているかのように語るか、全ルートで一切の変更がないかのように語るかしないとプレイヤーが混乱するというのはあると思います。これは無論、後者の優越をは意味しません。どちらも可能だ、というだけです。
 

ノベルゲーの成立以降、一貫してコンプリートという審級が存在し続けてきたこと、それが明示的であるゲームは、特に初期の着目すべき作品に多いこと、今なお、コンプリートにより物語の全貌やテーマ表現の完成を見るゲーム、あるいはそれに向けてプレイヤーの欲望を喚起するためのオマケが存在するゲームがかなりの割合で存在し続けることなどについての評価が足りないように思えますが、これは見解の相違、ということかもしれません。

 「特に初期の着目すべき作品に多い」とはどのあたりでしょうか?
 コンプリートさせたい場合はルート管理を組み込んでいる=実質一本道のゲームが多いように思うのですが。『痕』とか『月姫』とか。
 

そうした「プレイヤーの欲望あるいは欲望の欠如に基づく」様々な終焉可能性のグラデーションを捨象して「CROSS†CHANNEL」の構造論を語りたい、ということとか、それを勘定に入れるのであるとしても「CROSS†CHANNEL」は他のゲームにかなり近い終焉可能性のグラデーションを描きうることとか、そうした終焉可能性の中で「ライターの欲望」に基づく審級が「プレイヤーの欲望」を誘導してグラデーションの中心へとプレイヤーを誘うこととか――その指摘に対する、僕なりの答えや発想を書いてきたつもりなんですけど。

 直接の言及がないので読み取り損ねていました。申し訳ありません。