野村美月『”文学少女”と繋がれた愚者』

“文学少女”と繋がれた愚者 (ファミ通文庫)

“文学少女”と繋がれた愚者 (ファミ通文庫)

 『友情』の読み筋があんまりにも俺と違って驚いた。
 志賀直哉といえば日本近代文学史上に名高いアレな人、ナチュラルにノー屈託に傲慢なイヤな人なわけで、大宮のモデルがどうも志賀らしい、という時点で大宮なる人物の解釈が、ほれ、アレじゃん? 裏で野島をものすごく見下していたに違いない、と思えてくるじゃん? 杉子も野島をキモがっているだけだしね。この二人がくっつくに当たって葛藤があった、という確証はどうしたって得られない、というか、そのように言い繕った原稿を見せ付けられるだけ。ここにある種の表現者特有の残酷さ、を見出すことは不可能ではないだろう。友情を裏切ったことも、創作のネタでしかない、という。
 で、まあ、そんなありとあらゆる疑念をわきあがらせる往復書簡を紹介したあと、小説は唐突に、野島の強がりだけを示して打ち切られる。そこはまあ、ちょっとかっこいいのだが。
 恋愛事件の残酷さよりは、大宮と杉子の悪意の方が印象に残り、その点スケール小せえなあ、とも思うのだが、漱石が激賞した武者小路の正直さってのは多分、こういうみみっちさであって、みみっちくてイヤな話を読んだなあという喉越しの悪さは日本文学史上においてもトップクラスなのかもしんない。
 ところで『友情』はマイマザーのオールタイムベストで、そんなマザーは志賀直哉、殊に「小僧の神様」が大ッ嫌い*1、理由は作意がわかりやすすぎて作中人物に対して不実だ、というものなんだけれど、語ることの罪/傲慢という観点から言うのならば、『友情』は一応それを告発する小説論小説、メタフィクションであると言うことは出来る、てのはまあ別にそんなしゃっちょこばって言うようなことでもなくて作中作なんて仕掛けを持っている以上メタフィクションには決まっているのだしであれば語りの倫理に踏み込むのは当たり前っちゃ当たり前よねでも一応。
 そういう観点がでは『文学少女と繋がれた愚者』の中で十分に検討されたかっていうと全然そんなことはなくて大宮の苦悩に単純に焦点はあってしまうわけで、『友情』のメタフィクショナルな仕掛けはまあ、さらっと無視される、と言っていい。作中現実と作中作の問題意識は遠子先輩のアドリブで至極単純に一致させられてしまう。
 心葉の美羽への裏切りってのも語りの倫理云々てよりはもっと単純なパクりパクられっぽい気配だし、なんかこう、まあ、そんな自覚的に物書く野村美月なんて僕らのグラン野村美月じゃないっちゃそうなんだけど、欲望ドリブンな小説だよねえ、以上の評価はむずい、というか。欲望ドリブンっぷりは荒山徹級だとは思うんだけど。近代日本文学をトリビュートしたい、が今回の欲望ね。
 なお、文学少女いい女だな、とは思った。おっぱいタッチハアハア。

*1:太宰治は大好き、なお。フランソワーズ・サガンも。