クリント・イーストウッド監督『グラン・トリノ』
見てきました。@新宿ピカデリー。
ううん。これはなんというか、完璧な仕事。
唯一瑕疵を挙げるとすれば、コワルスキーの家から誰かが追い出されるときタオたちの家には誰かが入っていく、という構図が何度か繰り返されるんだけど、それがちょっとくどい、というくらいか。メッセージがそこだけ分かり安すぎる、と思った。
冒頭、長回されるイーストウッドのクローズアップ。例のあの顔ではなく、それは息子たちや孫たちの葬式での振舞いにいらだつ、八十路がらみの男やもめの顔だ。深々と刻まれた皺、弛んだ首回りの皮膚。自身の老いをありありと大画面に映し出す度胸にまずは驚かされた。
それにしてもイーストウッド映画の俳優はみなあまりにいい顔過ぎる。
スーとタオの姉弟と神父というコワルスキー以外のメインの登場人物はみな新人・若手だというが、どれもいい顔、特に神父のほっぺの赤い丸顔と来たら!
あとスーエロい。というのはまあ別に俺がそう思った、という話ではなく、作中で、コワルスキーがスーを女性として意識しているかのような描写がちょこちょこある。
例えば、車の中で二人親しく話し合う場面。明らかに、これはデートの含みだ。
そしてコワルスキーが彼女を意識するほどに、彼女の露出度は上がっていく。
その頂点でスーとコワルスキーの蜜月は悲劇的な結末を迎える。
そのあとコワルスキーが奥さんが寝ている時に他の女性とキスしたことを懺悔する、というのはなんというか出来すぎた話だ。
老いらくの恋とその破綻、てえのは『ミリオンダラー・ベイビー』とも共通するモチーフであることです。
それはまあ別に男として現役でないから恋人を幸せに出来ない、というか、男として現役でない、というモチーフの一部なのだろうと思うけれど。
男として現役ではないので、コワルスキーはグラン・トリノを運転しないし、人に向けた銃の引き金も引かない。
現役の男としてのコワルスキーは亡妻と共に死んでいるので、あとはそれにどのタイミングでどう殉ずるか、という話になる。
ふとした事で知り合った隣の男の子を鍛える話、ではなくて、久々にその気にさせられた女の子の気を引くためにその弟をかまってやる話なのだ、とまでは言わないが、スーってすごく重要な人物なのにそういう感想があんまない気がする。
例えば両家をつなぐ道を行き来できるのは彼女だけだ。タオはいきなり家の前に現れる。
なんというか無限に書くことの出てくる映画だな。
あとあと、タオと地下のイメージとか。
普通にドラマを追っかけてる映像にちゃんと見えるのに、少し突っつくと繊細微妙な仕掛けが出てくる。
なんというか異様に巧みな映画でした。