セカイ系とはポストエヴァンゲリオン症候群のことだ、と言ったのは宇野常寛であり、そもそもぷるにえブックマークで提唱された時から、セカイ系とはエヴァ以降の、という問題意識がその根底に据えられていた概念だったはずだ。
 超然主義セカイ系論は、まずもって多様な方向の模索されたポストエヴァ的想像力*1が三大セカイ系*2セカイ系へと収斂していく過程*3のダイナミズムを捨象してしまっており、セカイ系が本来持っていた最も美味しい部分を失った、絞りかすだけを問題にする退廃的な態度であり、従って、ポストエヴァ性という時代的・文脈的制約を外したセカイ系論はすべて無価値であると言ってそう大きな取りこぼしはない。
 このような切断を積極的に進めた笠井潔が一方で有栖川有栖のパズラー超然論を批判し大量死/大量生理論に拘って見せた、時代的・文脈的制約をこそ重視して見せたのは解せないのだが、バズワードをきっちり自分の守備範囲に納めようとしておく貪欲さには頭が下がるとはいえて、であったとしてもそのような笠井の超然主義セカイ系論に盲従する若い論者があらゆる意味で情けない存在であることは確かだ。
 無論、坂上秋成の悪口である。
http://d.hatena.ne.jp/syusei-sakagami/20091209/1260385560
 さて。
 エロゲーにおけるセカイ系とは、どのような作品を言うのであったか。
 単にポストエヴァというのならば本気汁の『僕らのいきなり同棲計画!』あたり*4になるのだろうが、超然主義セカイ系論者はそのような起源はすっぱりと忘却してしまうのであるから、三大セカイ系セカイ系のことを差しているのだろうと考えられる。
 三大セカイ系はそれぞれに異なった様相を示す作品だが、その共通点を大まかに抜き出せば、

  • 銃後の少年
  • 前線の少女
  • 二人をそれぞれ違った仕方で繋ぐ空と学園

の三要素ということになるだろう。
 有名作、と言って差し支えない範囲のエロゲーでこの三要素を満たした作品は、ほぼないと言っていい*5
 それは、視点人物である少年があくまで銃後にとどまる=使用頻度が極端に低いのに戦争のCGをわざわざ起こすようなコストを掛けようとは、正気のエロゲー製作者は考えないからだ。だから、戦争のCGを起こしたエロゲーは、『マブラヴ』であれ『群青の空を越えて』であれ、少年を前線に送り出す。
 ではあれ、セカイ系のムーブメントにいっちょ噛みはしたい、と考えたとき、エロゲー製作者たちはどうしてきたのか。
 まず、戦争を排除した。前線と銃後とは、引き裂かれる二つの場所の謂いだ。戦争のスペクタクルがその引き裂き役を引き受けることがカタルシスに繋がっているという側面は無論ある*6のだが、そこはすっぱりと断念する。どうせちゃんと書かないんなら戦争は別にいらないんじゃないか、というのはエロゲ以外でもしばしば見られる作法だ。
 すると、ローコストで導入できる引き裂き役として、終末、ループ、永遠という三つの時が浮上する。
 時しか浮上しないのは、場所で引き裂こうとすると、やっぱりCGが必要になるからだ。
 この三つの作例を挙げれば、『終末の過ごし方』『パンドラの夢』『ONE』ということになる。
 で。
 この三作品の技法がその後どれだけ継承されたのかと考えたとき。『ONE』の極めて理屈のない引き裂きが結局『KANON』と『AIR』くらいにしか引き継がれなかったのはもちろんだが、『パンドラの夢』がびっくりするほどループゲーの重要な作品として語られないことを考え合わせれば、殆ど『終末の過ごし方』だけがエロゲに三大セカイ系セカイ系技法を導入した起源として参照され続けている、ということになる*7
 リンク先でセカイ系として考えられているのは、おねかのえあに加えてループゲーなのではないかと考えられるが、ループゲーがそこまで重要ならば何故『パンドラの夢』は参照されないのか。
 決まっている。それが起源ではないからだ。
 ループやメタ視点は、ブランドで言えばシーズウェア、クリエイターで言えば剣乃ゆきひろあたりが、『エヴァ』以前からずっとやってきたことだ。殊更にそれを学園に結びつけ、印象的な空の特権的ビジュアルを組み合わせたことは今世紀に入ってからの発明だったかも知れないが、ループだメタだの仕掛けつき大作自体はずっと古い起源を持つ。そういうものが飽きられている、という手ごたえはデジアニメってあんまぱっとしないな、という状況論からこそ考えられてしかるべきであり、それはこの数年に始まったことではない。
 という意味で、やはり
http://d.hatena.ne.jp/matunami/20091213/p1

この馬鹿はどこのセカイのエロゲの未来を案じているんだ?

 といわざるを得ないだろう。
 3万本クラスの市場は、コンセプト一発で突き抜けるか、それができなければ明るく楽しく感動できる、というラインを目指してひたすらにバランス調整するマッハの戦いに数年前から突入している。
 そういうところでこそエロゲ特有の表現は磨かれていくのではないか、批評的なエッジはあるのではないかと思うのだけれど。

*1:その一端はhttp://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20090928#1254168470を参照のこと。

*2:ほしのこえ』『イリヤの空、UFOの夏』『最終兵器彼女』。

*3:三大セカイ系が映画、ライトノベル、漫画でそれぞれあったこと、エヴァが最も深く爪あとを残したはずのTVアニメから出てきた感性ではない事はあるいは注目されるべきかもしれない。あのような形にエヴァを整理してしまうことを、アニメ業界人は憚った、のかもしれない。想像だが。

*4:無論、本作は新劇場版に合わせて制作されたタイトルであり、現在持っているその批評的存在感は単なる周回遅れの先頭走者のそれでしかない。『イ号型局地迎撃天使NANAKO』であるとか、今は忘れ去られた直球偽エヴァエロゲが数多く存在した、その事実を忘れてはならない。

*5:本当に数少ない例外が、『ロケットの夏』。

*6:元祖エヴァンゲリオンがバトルアクションのカタルシスで評価されたことはゆめ忘れられてはならない。

*7:終末の過ごし方』ですら、センチメンタルな終末モノの中で最大のヒット作になったからしばしば言及される以上の存在感はない。それもそのはず、センチメンタルな終末モノ自体は『エヴァ』だのセカイ系だの言い出さずとも、昔からSF小説の世界では連綿として受け継がれているのだから。