『エヴァ』から『ヱヴァ』までのアニメ十選。

 『シムーン』BD化交渉支援のつもりで書き始めたエントリだけれど、結局間に合いませんでした。なので、せめて翠玉の日に。しかも9月第四月曜深夜と言う緩さで。深夜?
 要はかのオタ軽10のもっとヒドいような奴です。
 『エヴァ』放映終了後の96年4月から『ヱヴァ序』公開開始の07年9月、ということは実質07年7月クール放映開始までの期間の、これを外す奴とは親しく付き合えないという作品を十本選んでみました。基準は、『エヴァ』以降の問題意識をどれだけ引き受けているかと、『ヱヴァ』への道均しをどれだけ終えているか。
 なんというか、客観性なんぞはあるわけはないのですが、少なくとも俺はこういうことを考えながらこの15年、アニメを見てきたのです。
 笑えばいいと思うよ。

 『エヴァ』以降の流行りモノ、と思われているものは、大体は『ナデシコ』が準備していた、というのは、これはアニメ史的な常識であろう。
 ストーリーの大構造にがっちり食い込んだSF的大ネタ、その大ネタに抑圧される形で悲劇にとらわれた人物、そしてコミュニケーション不全な白髪人工少女、多すぎるくらいに多い、男性主人公と恋愛関係を匂わせる女性登場人物。これらは『エヴァ』以降に大流行りした要素だが、しかし、これらのどれひとつとして『エヴァ』そのものには見出すことはできない。シンジとの恋愛関係を匂わせるのは、ミサトを入れたとしても三人。綾波は口数こそ少ないがコミュニケーションの取れない相手ではないし、ホシノルリのように人をバカにした態度をとったりはしない。大ネタからの抑圧について言えば、結局世界設定のあやふやな『エヴァ』にあっては、個々人の心的瑕疵は様々に存在するが、その責を一方的に負わせられるような何か、設定上の諸悪の根源は存在しない。当然、世界設定にまつわる大ネタが使えないから、ストーリーの大構造は次々使徒がやってくるのを次々やっつけるだけの単純串ダンゴ方式でしかない。
 『機動戦艦ナデシコ』は、つまるところ『エヴァ』に対する極めて悪意的なパロディという側面を強く持ったアニメだった。
 その悪意は概ね二つの方向に分類できる。
 ひとつは、『エヴァ』の不備をあざ笑う方向。『エヴァ』の衒学的なアイテムがほぼ全てこけおどしであったのに対し、『ナデシコ』は不必要なくらいにくどくどとSF的なガジェットの意味と機能を説明する。そしてそれをお話にきっちり組み込んで、古代火星文明あたりはオープンエンドにする。
 これくらいは出来て当然じゃないの、と、そういうメッセージになっているわけだが、これだけならば単にきちんとアニメを作ろうとした、というだけになってしまう。
 この方向性をも『エヴァ』への悪意として読ませるのが、もうひとつの方向性。『エヴァ』にあった様々な方向性を、わかりやすくオタク受けし下品な方向に捻じ曲げて継承する方向性。
 例えばホシノ・ルリというヒロイン。所謂綾波系の代表的なヒロインとされる、というか、『ナデシコ』以降の綾波系は大体はホシノ・ルリの亜流、少なくともシリーズ構成における扱いにおいてそうなのだが、彼女と綾波は、実はあまり似ていない。
 色の薄い髪の毛、人造人間という設定、冷静で抑揚を抑えた口調。表面的といえばこの上なく表面的な部分だけは似通っているが、人間性に目を向けるのならば、この二人は全く似ていないと言わざるを得ない。
 周囲の大人と円満な関係を作っているのが綾波、周囲の大人を見下して腫れ物を触るような扱いを受けているのがルリ、一兵士として腹が据わっているのが綾波人外ロリとして気持ちが揺れているのがルリ。
 というのは全くもって箇条書きの罠ではあるのだが、少なくとも所謂ルリルリ三部作のような、ルリ本人に自らのアイデンティティを確認させ、その結果を敢えてアキトと視聴者に告知するようなあざといエピソードは、綾波にはなかった。
 そのように断片的にしか内面に踏み込まれなかったことによって残った謎、神秘性こそが綾波レイの魅力であったと言えるはずなのだが、このような神秘性を剥ぎ取られながらも表面的には綾波に似せられた、守られるべきか弱い少女を消費者の鼻面の前に差し出して見せたのが『ナデシコ』なのである。
 ところで、外見的に綾波に似ているのがホシノ・ルリであるとすれば、内面的に綾波に似ていたのは、マキ・イズミだ。少し話しにくい先輩パイロット、という主人公に対する立ち位置も同じならば、周囲とそんなにベタベタと親しくしなくとも自足できるメンタリティもそうだ。NERVの一職員、パイロットとしては、綾波はシンジはおろかアスカよりも上手くやっていけている、というのは旧『エヴァ』を考える上で忘れてはならない事実だ。人間関係で大きな問題も起こさず無難に日々の業務をこなしている先輩パイロット、という実に綾波的なマキ・イズミは、しかし不自然なくらいに作品の中でスポットライトが当たらなかった。『ナデシコ』は26話の尺に対してややキャラクターの数が過大なのだが、それをさておいてもいなくてもかわらなそうな雰囲気が漂いすぎている。これは無論、本当の綾波のパチモンと偽者の綾波のパチモンを配置して、後者にだけオタクが食いつく様を見てニヤニヤしようという製作者の悪意の表れと見るべきだろう。
 設定をきちんとこなしていた割にアキトを中心とした恋愛関係もしっかり描きこまれていた『ナデシコ』であるが、『エヴァ』と同じ尺で『エヴァ』がやらなかったことまでこなしたのならば、普通に考えれば何かを省いているはずではないだろうか。
 果たして『ナデシコ』が『エヴァ』から省いたものは、使徒との戦いであった。
 人造少女の悲劇で萌えオタをひっかけることには熱心だが機能と外見にずれのあるユニークな敵を知恵を凝らして倒すことには熱心ではないポスト『エヴァ』の諸作品、例えば『アルジェントソーマ』であるとか『無限のリヴァイアス』であるとか『ラーゼフォン』であるとか『エウレカセブン』であるとかのありようはここで準備されており、そしてこれらの作品は『エヴァ』まで遡って使徒を、毎回*1登場するアイデアを凝らして倒される外見と機能のズレた、ユニークでいながら覚えやすいシルエットでかっこいい敵を作品に導入することをしなかった。例外は『ベターマン*2theビッグオー*3くらいのものだが、これらがもっと古い何かを参照した作品でもあったことは特筆されてしかるべきだろう。
 一番大切だったロボットと怪獣のかっこよさを切り捨て、ヒロインのエロさと入り組んだ設定に『エヴァ』の魅力を限定する。
 アニメ業界がそのようにしてしか『エヴァ』を咀嚼できなかった、時代的な限界と精いっぱいの創意工夫を感じさせる一作。

 榎戸洋司は、『エヴァ』がよくできたロボットアニメだったころのメインライターであった。その榎戸が抜けて、庵野秀明自身や樋口真嗣などの非専門家、そして山口宏のような脚本家としての声望榎戸ほどには高からぬクリエイターが参加することで『エヴァ』の中盤〜終盤は取り止めがなくなっていった、と考えることもできる。そんな榎戸が『エヴァ』の現場から抜かれて何をやっていたのかと言うと、この『少女革命ウテナ』の作業なのである。従ってある部分において、『ウテナ』とは本来あるべきだった『新世紀エヴァンゲリオン』であると言うことができる。
 綾波レイとは、失敗した天上ウテナだった。碇シンジとは、旅立てない姫宮アンシーだった。父=ゲンドウ/兄=暁生に構築された世界の中で予定された役割を演じることだけを期待された少年=シンジ/少女=アンシーが、姉*4性的存在=綾波/ウテナとの出会いと別れを経て、どうなるか。外の世界へ出て行ければ、ジュブナイル的な主題において成功していると言えるだろうし、それができなければ、そういう失敗を描いた作品、ということになる。まさに卵の殻を破らねば、である。結局アンシーは成功したのだが、シンジの運命がどうなったのか、TV版の段階では分かりにくいのも確かだ。ただ、漠然と人と上手い距離感を取って生きていかないとなあ、そこそこワガママもいいつつ、というようなことを精神世界で納得しただけであり、父が作ったシステムの成員に拍手されたシンジは、まだその中に囚われているような気もする。はっきりと鳳学園を去ったアンシーとは、随分様子が違う。
 ウテナが十分に外部性を持った単なる闖入者であったアンシーと、綾波すら父の仕組んだシステムの一部であったシンジでは、与えられた卵の殻の固さが違いすぎる、とは言えなくもない。が、結局最も決定的だったのは、ウテナは「姫宮……君は知らないんだ。一緒にいることで、ボクがどんなに幸せだったか……」と言ったが、二人目の綾波は何も言わずに死を選んだ、というところではなかったか。ちゃんと話し合えば、結構分かり合える、それがどこまでか、はさておいて。
 『エヴァ』TV版のジュブナイル的主題を継承し、発展的な回答を示した、正当後継者とこそこの作品は称されるべきだろう。

 『ウテナ』がTV版のテーマの継承者だとすると、劇場版のテーマを継承したのがこの作品。個別的身体性と統合的霊性という対立軸を設定した上で前者を選ぶ、と夏エヴァはまとめることができる、従って「気持ち悪い」という台詞は単なる身体的不調を訴えたもの――統合的霊性に還元されてしまえば個別的身体の不調は問題にならないのだから――と解釈することが決して単なるまぜっかえしで終わるものではないと言う事ができると思うのだけれど、そのような二項対立はそもそも自明に成立しているのか、を問うたのがこの作品。
 人はどこにいても繋がっている、そもそも繋がっているのに、諍いを起こす。とすれば、人類補完計画に意味はない。
 ではどのように繋がれるのか、あるいは繋がれないのか。繋がれる存在があったとして、それは人と言えるのか。
 そのような思弁を当時最高水準の映像技術を投入して展開した作品。
 最高水準の技術には少女のちょっとした仕草のフェティッシュな描きこみも含まれるのであって、『かみちゅ!』などの日常系アニメさえ、ここで準備されていた、ということができる。
 概ね、『ウテナ』と『lain』で『エヴァ』の主題的な側面は90年代のうちに決着がついていたということができる。ならば、00年代はこの両作品が開いた少女性の問題系を巡る時代になるはずではなかろうか。
 この見通しは、少女の日常へのフェティッシュだけを追求する作品群、オリジナルアニメとしては前出の『かみちゅ!』、そして一連の所謂萌え四コマアニメ化作品、『ひだまりスケッチ』『らき☆すた』などが百花繚乱する00年代後半のアニメシーンとして実現することになる。

 『デジモン』は(『02』と『フロンティア』のTVシリーズ以外)どれもいいけれど、敢えて一本、と言えばこれ。
 『新世紀エヴァンゲリオン』以降の男児向けアニメの主流は、『ポケットモンスター』風の、自らは体を張らず子分に戦わせる少年の物語になっていった。『遊戯王』や『デュエルマスターズ』のようなカードバトルアニメもこの亜種と考えて差し支えないだろう。
 後ろで死ね死ねと叫ぶだけで体を張らない主人公。
 これは、本質的に何か不道徳なものを孕んだ構図であった。
 『デジモンテイマーズ』、そして『デジモンフロンティア』では、この構図を打ち破るべく、人間主人公のデジモンへの変身というモチーフが取り入れられるのだが、デジモンとの友情のため、デジモンだけを戦わせることを拒絶したテイマーたちはともかく、『フロンティア』の主人公たちは単に変身能力を与えられただけの少年少女となってしまい、アイデンティティを失ってシリーズ展開の終焉という憂き目に会ってしまった。
 サトシの、遊戯の、太一の、大輔の不道徳とは、実のところモニタのこちら側で死ね死ね殺せと叫ぶばかりの我々視聴者の不道徳に他ならない。似たような立場であるがゆえのわかりやすさ。それが我々とサトシたちの間にある後ろ向きの紐帯なのだ。
 無論、この紐帯は単に安楽なものではない。ポケモンに、デジモンに、カードに思い入れれば、手出しができないことは絶望ともなる。
 このような絶望を、モニタの中へ入っていく、という直喩的過ぎていささか乱暴ですらある手段で乗り越えて見せたのが『ぼくらのウォーゲーム!』というアニメだ。
 安全圏で死ね死ね殺せと叫ぶポケモニックエイジを突破する意志。碇シンジの痛みを我が物として引き受けることを肯定するという宣言。
 『エヴァ』のメッセージ、「オタク(≒オトコノコ)よ、痛みある現実へ行け」を再びアニメの表舞台に引っ張り出した作品。現今、ポケモニックは、『デジモン』『遊戯王』『デュエマス』という巨艦タイトルを残して、その存在感を大分に減じつつある。それを最初に内破したのがこの映画だった。

 ロボットアニメでできること、を大体全てやり終えたアニメ。『ガンパレードマーチ』的な学園ロボットアニメとして始まって、学徒動員を掛けられると高橋的な戦場ロボットロマンとなり、最後は神にも悪魔にもなれるスーパーロボットの神話的闘争に話がスケールアップする。そのそれぞれの展開のクオリティが高いとは言わないが、一個の作品がこれらの要素を内包できる、ということ、それくらいのことをやらないとロボットアニメは十分な満足をもたらさない、という、事態の行き詰まりを示したロボットアニメの極北。
 こういうものが存在してしまった以降の世の中では、普通にやっているロボットアニメは自動的に何か物足りないものになってしまう。『SEED』や『00』が不評なのも『ゴーダンナー!』や『アクエリオン』が退屈なのも『グレンラガン』や『エウレカセブン』が鼻持ちならないのも全て『オーディアン』のあとだから。
 このあと、ロボットアニメは今川泰宏大張正己といった作家性と結びつくか、『オーディアン』が唯一やり残したあるモチーフ(後述)を追求するかしないことには形骸化した印象を免れなくなる。『ヱヴァ』はこの限界を突破しえた、のかどうか、ロボットアニメの歴史が無事二周目に入ったのかどうかは『ヱヴァ』後の諸作の検討が必要になるだろう。『ヱヴァ』そのものは、ひとまず制作規模による物量でこの限界を突破したようには見える。

 『新世紀エヴァンゲリオン』が切り開いた時代の時代精神が誰であったかと言えば、これは桑島法子に決まっている。桑島法子が『エヴァ』のオリジナルスタッフとした仕事は、しかし決して多くはない。彼女のメジャーデビューは『機動戦艦ナデシコ』であり、その音響監督は田中英行だったが、その後桑島はオーディオタナカでは仕事をしていない。余談ではあるが、田中がかつて語った「挨拶の出来ない新人は二度と使わない」という、その挨拶の出来ない新人とはことによったら桑島のことだったのではないだろうか。
 さて、田中英行に愛されなかった桑島法子を偏愛した音響監督とは誰だったかと言えば、我らが世代の文化英雄である鶴岡陽太に他ならない。
 しかし、鶴岡と桑島の蜜月は、唐突に終わる。その、桑島・鶴岡コンビのひとまずの最後の作品が、この『忘却の旋律』である。
 そして、この作品は、『エヴァ』が斬新なロボットアニメであった頃のメインライターというべき榎戸洋司が脚本・シリーズ構成を務めた、桑島法子と『エヴァ』オリジナルスタッフの組んだ作品でもあった。
 この作品で、桑島法子は少年役をきっちり務められる声優としてこの上をちょっと想像しがたいクオリティのパフォーマンスを発揮することになる。なんでも出来る、したがるタイプの女性声優において、では最も手際よく演じることができるのはどんな役柄かと言えば、これはもう、圧倒的に少年役であると決まっている。なんでもやりたがる、作れる自分への信頼の強いタイプの声優は、往々にして日常芝居が作りこみすぎの弊害で荒れるものだが、作りこむことが前提の少年役ではその不自然さを際立たせない。そのような一般論のレベルで桑島法子――典型的な作りたがりだった――は少年役への適性を有していたわけだが、では、この作品でのパフォーマンスがその次元に留まったのかと言えばこれはそうではなかった。
 桑島法子は強い感情をどこからでも爆発させる能力で一世を風靡した声優だ。ボッカ・セレナーデは決して気の短い少年ではないが、切羽詰った状況に置かれた少年ではある。その臨界寸前の思春期のたぎりを、爆発の予感溢れる桑島の声は実に見事に表現していた、というべきだろう。
 桑島は、基本的には会話が出来ないタイプの声優だ。モノローグで見せる異様な迫力を、上手くダイアログに落としこむことができない。それがボッカの純朴な正義漢ぶりをよく表現していた。無論、ダイアログでキレるタイプであるところの浅野真澄との対比も忘れてはならない。
 純朴な正義漢だが、決して表面に熱さを出しはしないボッカが辿る旅路とは、概ね不正義に対する妥協を拒絶はしないオトナの悪さに満ちた世界での、不正義との戦いだ。
 つまり、榎戸世界だ。
 『フリクリ』、『トップをねらえ2!』そしてこの『忘却の旋律』。榎戸洋司の00年代GAINAX三部作はいずれも大人になること、子供でいること、正しくない大人にならないことを巡る物語、総じてオトコノコ的困難の物語であった。
 『lain』と『ウテナ』が準備した、大友向けアニメの少女性偏重の時代は確実にやってきていて*5、『トップをねらえ2!』では榎戸も女性主人公を扱うことになる。
 いかんともしがたい繊細さを抱え込まされた男性主人公が悩み倒すアニメなど、もう流行らない*6。そのような作品世界の空気の象徴である桑島法子は、30歳を目前に時代から決定的にずれ始めていた。
 榎戸アニメだから、この作品のキャラクターは実にしばしば呟く。
 桑島、感動詞がキレるはずの彼女の力の抜けた呟きの素晴らしさは、ある種の枯淡の境地をも感じさせなくはない。
 みんな実はあまり作っていなかった『エヴァ』みたいなアニメってもうやっぱりしんどい、という、時代の移り変わってしまった感覚がそこにはある。これが、『エヴァ』後の終わりの始まりだった。

 『エヴァ』後の時代に一番振り回されたクリエイターと言えば、まずはふじもとよしたかの名を挙げねばなるまい。まず、彼は『新世紀エヴァンゲリオン』の後番組の監督であった。その後番組、『VS騎士ラムネ&40炎』こそは、数ある偽エヴァセカイ系作品のいできはじめと言うべき作品だった。
 『VSラムネ』の『エヴァ』性へのアプローチは、知的・論理的でありつ、その後の歴史を振り返れば極めて特異でもあった。
 『エヴァ』が受けたのは、シリーズ全体のクライマックスへ向けての話の盛り上げ方、その抽象的な構造にある、と見たのだ。
http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20080924#1222288617

作中の出来事の原理的説明を投げ出し、作品世界の理不尽とそれに起因する殊更な悲劇を強調する構造によって『エヴァンゲリオン』であろうとした

 とかつて俺は言った。
 この理不尽を話の途中から突然挿入したことが『VSラムネ』の失敗であったと総括することが出来、いきなり理不尽に投げ込む三大セカイ系的な方向へこの方法論は洗練されていったわけであるが、監督のふじもと自身がそのような洗練されたセカイ系作品の送り手になったわけではなかった。
 『万能文化猫娘』『アキハバラ電脳組』と90年代後半スタチャアニメの中でもあまりスポットライトの当たる機会が多いとは言えない前者、王子様三部作で唯一TV版から劇場版で監督が交代した後者を監督したあと、TVアニメを監督する機会を2002年まで持てなかったからだ。その間、数々のエロアニメを手がけることになるわけだが、仕事は絶えなかったので単に不遇だとは言えないものの、ポスト『エヴァ』時代の重要な作家として遇された、とは言いがたいキャリアではあるだろう。
 このようなキャリアを経て、TVアニメに華々しくふじもとよしたかが戻ってきたのは2002年のこと。破滅気分のロボット作品、ということではあるいは『エヴァ』の大先輩というべき『マーズ』の再々アニメ化である『神世紀伝マーズ』。あまり大きな注目を集めなかったこの作品に続いて手がけたのが、00年代の最良のアニメシリーズのひとつ、『マーメイドメロディーぴちぴちピッチ』である。ノンシャランとした適当さ、その適当さの中に不意に回帰する残酷さ。気合を入れる方向にはまったく向かおうとしない制作体制全般。
 それは概ね、日本TVアニメの原初的な楽しさに満ち満ちていた。
 この傑作の次にふじもとが手がけたのが、『こいこい7』である。原作はもりしげ。『エヴァ』が好き過ぎて一歩も動けなくなってしまったタイプの作家であり、それを『エヴァ』に振り回されたふじもとが監督してアニメ化する、とはなんとも皮肉な暗合と言うべきだろう。
 例えば6人だけどこいこい7である理由、何故ミヤはこいこい7を目の敵にするのか、ロボットの出所は、そもそもその存在理由は。そのあたりの設定説明は、きもちいいくらいにすっ飛ばされる。細かなパロディに満ち満ちたなんとはなしにサービスの効いたエピソードが積み重ねられ、大きな話がやっと動いた、かと思えば全てを投げっぱなす最終回。
 これは、まさに『新世紀エヴァンゲリオンTVシリーズの構造そのものではないか。
 『エヴァ』に対する最もスマートな換骨奪胎の形がここにはある。
 さっき、「ふじもと自身がそのような洗練されたセカイ系作品の送り手になったわけではなかった」と言った。そのふじもと作品が『エヴァ』に対する「最もスマートな換骨奪胎」になっている、とは矛盾ではないのか。さにあらず。「洗練されたセカイ系」作品群は、『エヴァ』の鬱々たる雰囲気や一貫した悲劇性を重んじた。この点で、基本的には明るく楽しいふじもと作品とは違う。明るく楽しい一方で、関係性の中からぎちぎちと立ち上がる心のきしみをふじもとは決して回避しようとしない。茶番に回帰する残酷。作られた悲劇よりは、生成する悲劇。それを突き抜けた先にある、圧倒的な楽園。
 悲劇に酔わない健全さを『エヴァ』の構造から抽出して見せた。『エヴァ』後にも健全なアニメは可能だ、ということ、それが『エヴァ』を踏まえてもなお成立することを示し、『エヴァ』の神秘性の最後のひとかけらをきっちりはぎとって見せた。もはや『エヴァ』後ではない。この作品のあとでは、『エヴァ』はただ『エヴァ』としてしか存在できない。だから、新しい『エヴァ』は『新世紀Zエヴァンゲリオン』、続編・完全新作ではなく、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』、リメイクを選ばざるを得なくなってしまったのである。

 昨今の流行のドラマ構築の手法をロボットアニメに持ち込む、という方向性では限界まで攻めた一作。量子論バーチャルリアリティ、ループ設定などなどを手際よく詰め込んだあたりは評価されていい。ただ、それがロボットアニメの特異性にきちんと根ざした物語要素であったかどうかには疑問が残る。『オーディアン』の射程圏から逃れえた、とは言えない作品だが、敢えてここに名前を挙げたのは、そのデザイン上の処理。蛍光のラインをロボットに入れる、というのは『エヴァ』の時には不可能で、『ヱヴァ』では印象的に取り入れられた表現である。このあたり、今の技術でできるだけ良質なロボットアニメを作ろうとした、『ゼーガペイン』のまともさが際立つ。
 『トップ』に対して『トップ2』がそうしたような、単なる今風の秀作を目指す方向を『ヱヴァ』がとらなかったのは、それでは『ゼーガペイン』を超えられない、とは思わなかっただろうが、仮想的な今風の物語要素を手際よく詰め込んだ秀作との差異化ができない、と判断したからではなかろうか。『ヱヴァ』の仮想敵がもしあったとすれば、それはこのような作品なのではないか、という想定に奇妙に合致する、という意味で『ヱヴァ』への道均しらしき存在感を放つアニメ。
 このアニメを経た後の『ヱヴァ』では、だから可能なサプライズが旧作の記憶を利用する=二次創作めかす方向性に限定されたのもむべなるかな、なのである。
 ロボットアニメの二周目の先駆けとして、まずはまともさの里程標を打ち立てた作品。

 『エヴァ』後が終わるためには、『エヴァ』前の蘇りが必要だ。
 では、『エヴァ』前とはなにか。勿論『新機動戦記ガンダムW』と『マクロス7』である。
 『ガンダムW』風な特殊作戦チームを舞台に、『マクロス7』的な祈りのモチーフを突き詰めたアニメ、とひとまず『シムーン』はまとめることができる。
 『W』的な特殊作戦チームというモチーフは、00年代にあっては死屍累々の代名詞だ。例を全て挙げる暇はないが、とりあえずふたつの『ガンダム』のTVシリーズ、『機動戦士ガンダムSEED』及び『機動戦士ガンダム00』を挙げておこう。
 『W』が持っていた五機のガンダムの離合集散のダイナミズムをそぎ落とし、同一陣営のチームにしてしまったことがこの両作品に共通する失敗であると言えよう。
 コール・テンペストの面々を同じ母艦に起居させた『シムーン』は、同じ轍を踏んでいる、ように見えなくはない。
 しかし、勿論そうはならなかった。
 『シムーン』では、人間関係の範囲を極力アルクス・プリーマあるいはメッシスの中に絞った。人物同士の関係性は作品世界のありうべき広さを極めて強力に規定する。人間関係に対して、作品の舞台は広すぎてはならない。
 別行動する五機のガンダム、ならば、地球全体くらいは広すぎるとは言えない広さだ。五飛がビクトリア湖を襲いヒイロ伊豆半島で学園生活を送るときのビクトリア湖伊豆半島の距離はそのままこの二人の心理的な距離感を反映している。
 四機のガンダムチームが今日はスリランカ明日はアイルランド、というのでは、人物同士の関係性とその二箇所の遠さになんの関係もない。同じ艦に起居する四人には、地球圏は広すぎる。さらに敵陣営との因縁も濃い目に描こうとすれば、艦内で人間関係を完結させることも出来ない。そうすると、今度は艦内が狭すぎる、艦内の各所を人物と特権的に結び付けていくこともできない。
 『シムーン』はこの裏をやった。アルクス・プリーマ、あるいはメッシスの中、味方だけに人間関係を限ってやれば、母艦内は十分広く、そして狭い、即ち適切なサイズの舞台となる。そしてパラ様階段は特権的な場所としての地位を確立する。
 と言う話をすれば、メッシスの狭さが重要だったことも頷かれるだろう。あれは、ピースミリオンなのだ。独立行動を取っていた五機のガンダム、五人のガンダムパイロットがいよいよ一堂に会した決戦のための艦なのだ。だから、彼女たちは大部屋生活を送ることになる。しかし『ガンダムW』とは違い、負け戦を描く『シムーン』では、メッシスに集まって終わり、というわけにはいかない。テンペストのシヴュラたちは再びアルクス・プリーマの私室に散らされ、それぞれの敗戦、モラトリアムの終わりを迎える。
 ところで、『シムーン』と言えば序盤の西村純二絵コンテ回におけるティルトアップの多用が印象的なアニメでもある。上へ、上へ。空へ。そういうベクトルを強く与えられた『シムーン』に対し、『ガンダムW』は凡そ対照的な運動で幕を開ける。それは、落ちる、という運動だ。五機のガンダムが、地球へ落ちてくる。そのうちのひとつ、ウィングガンダムを、OZのゼクス・マーキス隊が発見することで物語は始まる。落ちていくウィング。それを追うOZのモビルスーツ。このシークエンスで印象に残るのは、下に位置するものが常に主導権を握っている、という常識とは転倒した戦闘の展開だ。
 より速く落ちるものが、より強い。一番悪いのは重力に魂を縛られた人間であるとして、ならば今すぐ愚民たちに英知を授けることはできないとして、では、せめて我々に何ができるのか。無論、エレガントな敗者になることができる。むしろそれしかできない、という絶望こそが『ガンダムW』という作品の通奏低音ではなかったか。
 だからこそ、あまりにあまりな夢物語「完全平和主義」がそのカウンターパートとして輝かしく浮かび上がる。その儚い祈りを血肉化する、矢島晶子の奇跡の声を得て。
 奇跡の声に血肉化された祈り、という意味では、矢島晶子の芝居と福山芳樹の歌声は同質の存在だ、ということができる。あんなふうに、熱気バサラのように歌えるシンガーが実在したこと自体奇跡といわざるを得ない。
 さて、リリーナ・ピースクラフトが掲げた完全平和主義は、それが可能となる理路が説得力を持って描かれたとは言いがたいにも関わらず物語世界内のリアルポリティクスの帰結点となっているという、いささか問題のある代物だった。第一話でリリーナが軍港を見てそこを民間に解放することの経済的影響を語る台詞があるにはあるが、この路線は結局作中ではまったく追求されない。この程度の瑕疵は『新機動戦記ガンダムW』が傑作であることをまったく阻害するものではないのでどうでもいいといえばいいのだが、折角立ち上げた儚い祈りをあんまりにも即物的に、具体的に処理しすぎた感はあった。
 このような即物的・具体的な処理を避けて、祈りのありかを追い求めていたのが『シムーン』であり、『マクロス7』なのだ。『マクロス』は元来『ガンダム』よりも絵空事が許容される幅の大きな世界観*7の作品であり、抽象的なテーマが物語内のリアルポリティクスを経ることなく実現されていいという特性がある。スピリチュアルなものと親和性の高い、80年代気分の作品なのだ、政治の季節、68年革命の残照だった『ガンダム』と違って。
 『マクロス7』のテーマとはなにか。それは、諦めないで働きかけると、報われることもある、ような気がする、ということだ。報われるのはあくまで気のせいなのであって、大切なのは諦めないで働きかけること。つまり、祈る、ということだ。
 バサラの祈りとは勿論その歌のことだ。銀河よ、俺の歌を聞け。このフレーズがポジティブな、ということは最大の可能性としてスピリチュアルな方向へなんとか作品の舵を切ろうとしていた富野由悠季井荻麟の最直球スピリチュアルソング、「一千万年銀河」の歌詞と平行性を持つのは異とするに当たるまい。自らの心を巨大な何者かの前に、敢然と屹立させる。そしてとにかくそれに働きかける意志を持つ。くだらない戦いを超える契機をそこに見いだす、という方向性。
 『シムーン』もまた、この方向性を継承している。バサラが歌ならば、シヴュラたちには無論リ・マージョンだ。リ・マージョンは、即物的だが具体的ではない、という、即物的で具体的な完全平和主義、観念的で抽象的な歌とはまた少し違ったアプローチの祈りの形として設定されている。
 実のところ、『シムーン』とは、このリ・マージョンの即物性が持つ、祈りのわかりやすい実効性に抗して如何に高い志を持つか、という物語であった。これは、歌エネルギーやアニマスピリチアなどの言葉で自分の歌を縛られることを最後まで拒否しとおしたバサラの態度と平行性を持つ。だから、『シムーン』は物理的破壊力の鮫のリ・マージョンで始まって、ただ純粋な祈りである朝凪のリ・マージョンで終わる戦争の話なのだ。
 戦争。ロボットアニメが戦争を描く、というのも『エヴァ』後が終わるまでは死屍累々だったモチーフではある。押井守の示したアニメ的戦争観をも更新するような作品*8が成立したという事態には、『エヴァ』後が完全に終焉し、『エヴァ』前の最良の部分がまた評価される時代がいよいよやって来たのだ、という感慨を禁じえない。

 『銀装騎攻オーディアン』はロボットアニメの全てのパターンをやりつくしたような作品であったが、ひとつだけ導入しなかったモチーフがある。それが、「ロボットと人間の恋物語」というモチーフである。『オーディアン』以降『ヱヴァ』までの注目されるべきロボットアニメを挙げれば、『Z.O.E. 〜droles,i』や『ゾイドジェネシス』など、このようなモチーフを取り入れた作品の名前ばかり上がることは、偶然でもなんでもない。ロボットアニメ史的な必然だ。
 そのロボ恋モチーフを突き詰めたのがこの作品。すなわち、ここでこそ『鉄人28号』から始まり『エヴァ』にまで至った日本ロボットアニメの一周目は完結することになる。
 巨大ロボットとは、なんだろうか。主人公に神にも悪魔にもなれる力を与え、概ね人型であり、漠然と人格を感じさせる、しかし声なき何者か。それは、TVの前の視聴者のメタファーではなかったか。
 オトコノコとは、巨大ロボットだった。巨大ロボットとは、オトコノコだった。
 『アイドルマスターXENOGLOSSIA』は、この発見を巡る物語だ。引き篭もりロボットのインベルが、モニタの向こうの美少女、天海春香と出会って恋に落ちる。
 インベルの成長と春香の恋、とまとめれば、成長しないシンジと恋をしないアスカという特に夏エヴァで顕著になった『エヴァ』のモチーフが反転せられていることがわかるだろう。
 さて、モニタを超えるのはただ思い入れのみ、という意味では『ぼくらのウォーゲーム!』とも平行性を持つこの作品であるが*9、とすればオトコノコ問題に対する回答の方向性はシンプルである。この子に癒され、そして応えよ。
 現実逃避でフィクションを摂取してではあれ、頑張っている誰かに触れてしまうことは否応なく視聴者の心に漣を立てる。あとはささいな、テクニカルな問題だ。インベルと春香とまでは行かずとも、ヌービアムと雪歩程度には、俺たちとモニタの向う側は触れ合える。だってヌービアムが守ってくれたってほっちゃんが言ってくれたから。まったくもって

ここ数年の堀江由衣の起用のされ方は、さあこの声優を好きになれという俺に対する何ものかのメッセージなんじゃないか。

http://d.hatena.ne.jp/nihilo/20090709/p1

とこそ言うべきだ。
 また、

アイドルファン同士は交流できるけどアイドルは逆に孤独問題

http://d.hatena.ne.jp/kirica/20090330
についての

現在我々が参照できる最良のアイドルの一人である堀江由衣はクリスマスコンサートにおいて当該年のクリスマスは大切な人と過ごしたと言いたい、と語ったという。しかも人たちと言いかけて人と言い直したという。

ここに示されたファンとアイドルの一対一関係が理念的なもの以上として機能しうるのならば、アイドルの孤独は埋められるだろう。愛するファンと交流できるのだから。

という角度からしても、雪歩に泣いてもらえた果報者のヌービアムもまた、我々の写し絵だったのだ、と言うことができる。
 『新世紀エヴァンゲリオン』の広報に関わった小黒祐一郎は言う。

皆、現実に帰れ。あまりにも直接的なメッセージだ。語り口はどうあれ、云っている事そのものは正論だ。少なくとも公開当時はそう思った。だが、『エヴァ』放映開始から10年経った今では、フィクションやバーチャルな世界と、僕達の「現実」を分離できるのだろうかと思う。

http://www.style.fm/as/05_column/animesama62.shtml
 モニタの向こうへ思いいれることの可能性を、インベルの、ヌービアムの、ネーブラの、ヒエムスの、テンペスタースの沈黙の中に示した一作。

*1:リヴァイアス』のヴァイタルガーダーはここに抵触する。なかなかに愉快な敵メカは気まぐれに登場するだけで基本的には艦内で揉めてるだけのアニメだ。

*2:勇者王ガオガイガー』の姉妹作品、ということは勇者シリーズの一環であると強弁することも出来なくはない。

*3:1960年代的なレトロ感を狙っている。

*4:とはつまり、人生で出会う最初の他者である。

*5:忘却の旋律』は『マリア様がみてる』と同年のアニメだ。

*6:そもそも。そんなアニメのブームはなかったのではないか、という節さえある。『エヴァ』『ヱヴァ』間のロボットアニメを概観するに、まだしも該当しそうなのは『機動戦士ガンダムSEED』『SEED DESTINY』と『theビッグオー』『アルジェントソーマ』、『ゾイドジェネシス』くらいのものではないか。

*7:そもそも宇宙人の地球襲来から始まる物語なのだ。

*8:詳しくはhttp://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20090824#1251088111

*9:あの控えめな、モニタを超えるダイスキの奇跡!